まじで寝れん

目からビームを出してやると、観衆は大きな歓声をあげた。

満足した僕は再びビームを出す。先ほどと同じ大きさの歓声が響く。

三度ビームを。同じ歓声。

途方もない時間をかけて延々と繰り返していたら、ついにビームが出なくなった。

目をいくら見開いても、拳をいくら握り締めても、足を踏ん張っても、目の奥にある僕特有の光線発生器官は何も言わなくなった。

だが、歓声は鳴り止まなかった。それまでと全く同じように、かつてビームが飛んでいった方向へと視線を合わせて追いかける。

観衆たちにはビームが見えているのだ。僕が出ないと思い込んでいるだけで、ちゃんとそこにはビームがあった。彼らの見ている一筋の光は、僕が目を見開くたびにかなたへと飛び去っていく。

観衆たちの期待はまだまだ続く。手応えのないビームを再び、途方もない時間をかけて繰り返し出していった。

目の筋肉が痙攣してきた。あまりにも頻繁に目を見開いたおかけで、僕の顔面は限界に達していた。

強く見開くことができない。目に入らない力を補うように拳と足に力を込めるが、ビームの本質は目を見開くこと。それができないのだから想像上のビームでさえ出している感覚がない。

それでも観衆たちの興奮はおさまらない。僕が拳に力を入れるたびに、あの動きを繰り返している。出した実感のないビームを、彼らは目で懸命に追っている。

その内に握り締めた拳が血塗れになり、踏ん張りすぎた足に激痛が走り、全身が動かなくなった。

それでも観衆たちは、僕がビームを出したいと思うタイミングに合わせて同じ動きを繰り返していた。

僕が意識を失ったとしても、彼らは何かに合わせてこの繰り返しを続けるのだろうか。

何を根拠に? 何を求めて?

おさまらない歓声を浴びながら、逃げ場のない僕はかろうじて動く口でこう呟いた。

「僕たちってどうすればいいですか?」

まあ、

なんかよろしくない結果だったとしても、自然と受け入れられそうだ。

なんだって今までがずっとそうだったのだから。

 

とはいえ、何か希望を持ってしまう自分もいる。

ちょっとばかり、プラスの変化が起こったっていいじゃないか。

褒められる行為を積み重ねてきたわけじゃないが、それくらいは許されるだろう、という。

 

すべては自分がかわいいから。

傷つけられたくない、この脆く儚い自我を。ようやく形作ることのできた自我を。

それとも、「やっぱり」と思いながら傷いた経験が自我を傷つけ、元々の自分をさらけ出してしまうのか。

 

無我、空、仏教観念が頭をめぐる。

結局何もなかったならば、最後にすがるのはここなのだろうか。

伏し目がちな節目の中で

大きく人生が変わる節目に、大きなことが起こる。
大学合格のときも、そして今も。

大学時代は自分の中に大きな変化をもたらした時間だった。産まれた街を離れ、家族から距離を置くことができた。誰の目も気にすることなく、初めて自分のためだけに過ごした日々。何が好きか、何が嫌いか。一人暮らしをさせてもらった中で、ようやく自分というものに向き合う時間を得ることができた。実家に本棚はなかった。地方都市の周りには何もなかった。お金もなかった。本を読む習慣も、他の文化的な営みをする習慣も身につかなかった。それが、有り余る時間と、自分に向き合う機会を得て、少しづつ、自分の中に蓄えられていった。
その始まりは、あの記憶からだった。
大火、海水。市長とすら連絡がつかない。
一瞬にして何もかもが失われていった光景は、直接の被害がなかったわたしの心からも、一時的にしろきらきらしたものを奪っていった。
合格発表の翌日だった。
楽しさ、解放感。そんなものは簡単に流されていった。一夜明けて、余韻に浸る間もなく流されていった。

そして今。
会社を辞めると宣言したすぐ後に、ヨーロッパで感染が拡大した。
これからを考えようとしていた矢先に、その前提が崩れていく。

まただ。
大きな世界と小さな自分を結びつけてしまうのは自意識過剰でしかないのだけど、そんな風に感じてしまう。偶然でしかないはずなのに、何か因果関係でもあるのではないかと感じてしまう。

大学時代の経験が、今の私の基礎となった。あの期間がなければ、私は私という意識すら持てなかったはずだ。
その、意義深い期間は、あの忌まわしい記憶から始まった。

似た構造が、今回も。
だから、私のこれからも、あのときと同じように私にとっての大きな変化をもたらしてくれる期間となるのかもしれない。何かからの解放を約束してくれるのかもしれない。
今だって私には直接的な影響はない。あのときと同じように。
だから、少なくとも私の人生を考える限りは、この記憶が、変化の始まりとして刻まれるのかもしれない。

地域によっては少しだけ、収束の兆しが見えている。
なんだって、いつかは終わりを迎えるはずなのだ。そしてその終わりは、私の変化の始まりと重なるはずなのだ。

だが、違いもある。
こびりついた抑うつ。薄曇りの気分を晴らすような気力が、私の中に残されているのだろうか。
今度の解放は、いよいよ、生きることからの解放なのかもしれない。それは、もう二度と、節目を作らなくていいことにもつながる。

mづあい

そうして彼は落ち込んで、その短い生涯を終えた。

楽しい出来事は一瞬で終わる。そう、あっという間に。それは塗り絵をしていて、弱い色、例えば黄色とか肌色(今は差別防止のためにうすだいだいと呼ぶらしいが)の色味の調整のために強い色を重ねる時のようだ。弱い色はすぐに強さに打ちのめされてしまう。あの色が出したくて、なんとか目の前の色を分解して編み出したというのに、少し力を入れればあっという間に強さに覆い隠されてしまう。強さ。それは自分の信念を信じられることだといってもいい。うすだいだいだって、そいつだけが塗られていればまぎれもないうすだいだいなのだ。だけど、そこに赤色とか、あまつさえ黒色なんて置かれてしまえば、何も彼の意思は反映されなくなってしまう。薄く薄く、とにかくそこは理性との戦いだ。色を塗りたい、その思いに毒されてしまうと見る間もなく黒一色に塗りつぶされてしまう。ああ、今日もまた心を込めて塗ったうすだいだいが一瞬の力によって黒く塗りつぶされてしまった。気づいてからいくらうすだいだいを力強く塗ったとしても、もう元には戻れない。漆黒。暗黒。それ以外何もない。黒くなった後に初めてきづく惨劇。

ああ、生まれてこなければよかった。

ビジネス書の書き方

1 主張を考えよう

 

書店でビジネス書の棚を眺めながら、よく出てくる言葉(以下、A)をピックアップしよう。次にその言葉と逆のイメージを持つ言葉(以下、B)を思い浮かべる。そしてその言葉こそがビジネスにおいて重要なのだ、と自分に言い聞かせる(最重要ポイント)。思い込みが完了すれば、重要であると考えられる理由は何個も自然と思い浮かぶだろう。そうすればもう本文に手がつけられる。「Bと聞いて、ビジネスシーンと結び付けられる人はそう多くはないだろう」と書き出そう。あとは理由を簡潔に並べて本書の構成を述べたあと、最後に「これからその中身を見ていこう」とでもつけておけば『はじめに』の完成。

一方、Aがビジネス書で取り上げられている理由をサーチしておいて、それらの理由に反論しながら、Bの理由へと結びつけることも忘れてはならない。あまりぶっきらぼうに先人たちの主張を無視すれば、私のように友達がいなくなってしまう。そこまでできれば、「もちろん〜という主張もあるだろう。しかし〜」とか言いながらAの理由1、その反論、Bの理由1、という風に繰り返していけば第1章の完成。

 

2 主張の裏付けを取ろう

2ー1 すごい企業(多くはアメリカ)の事例を集めよう

例えばグーグルやアップル。ボストンとかマッキンゼーとかコンサルもいいし、ブランド力の高い企業の事例をかき集めてBの理由にマッチしそうなものをピックアップする。業種が多岐にわたっているからそれっぽい事例はいくらでもあるはずだし、ぴったりな事例が見つからなくても自分なりの解釈を付け加えて無理矢理繋げればいい。アクセントとしてたまに日本企業の事例を付け加えておくと吉。

2ー2 自分の経験と結びつけよう(あれば)

筆者の肩書きを気にするのがビジネス書の読者というものだ。「私は10年〜をやってきたが、そこで〜」なんて書いて、内容がまさにBの理由を体現したようなものだった暁には、読者の心は筆者に釘付けだ。

2ー3 科学的知見を活用しよう

論理的思考力が重視される時代において、やはり科学の権威というものを取り入れておきたい。脳科学や心理学、社会学とかを中心に、あるいは生物学なんかを齧って本能的な部分だと訴えてもいいのかもしれない。知見のアカデミックな世界での受け入れられ方なんてのは無視してよく、多少トンデモであっても自分の主張を裏付けるのであればじゃんじゃん取り入れていこう。なに、読者はジャーナルなんて購読していないし、していたとしても専門外の分野に口は出せない。

2ー4 失敗事例も取り入れよう

企業や自分の事例を集めようとすると、どうしても成功事例ばかり集めてしまいがちだ。Bがないばかりに失敗してしまったという事例も付け加えておくことで、さらに主張に説得力が増す。これもこじつけで良い。

 

本の序盤〜中盤にかけては、上記の内容を並べながら自分の主張を繰り返し述べていこう。

 

3 読者に歩み寄ろう

3ー1 身近な例を作り出そう

先ほど取り上げた事例はどれも有名な大企業だったり、本が書けるほどすごい著者のものだったりと、読者の立場からすると雲を掴むような話に思えてしまう。企業の1セクションの話なんかに置き換えたバージョンを作っておいて、適宜挿入しておこう。読者が身近に感じてくれれば、自分の主張もより受け入れてもらいやすくなる。先ほど述べた著者の失敗事例なんかも、親近感を感じてもらう有効な手段となりうる。

3ー2 今日からできる実践方法を考えよう

Bがどれだけ大層な言葉であっても、読者に何か変化を起こさせないようではビジネス書としてのヒットは見込めない。時にはエリートたちを、あるいはどこにでもいそうな平社員たちを事例に、実践方法とそれによってもたらされた変化を書き並べていこう。実践することはなんでもいいが実践してもらえなければ意味がない。通勤中の時間で済むことだったり、あるいは会社の休み時間に周りを巻き込んでゲーム感覚でできるものだったりするときっかけを掴んでもらいやすいだろう。

 

本の終盤では、こうした歩み寄りを見せながら自分の主張の普遍性を訴えていく。最終章はもちろん実践方法に充てる。最初に大きな主張を見せておいて、だんだんと一会社員であろう読者の立場に歩み寄っていく。最後に実践方法を書いて「あなたにもできる!」なんて言われた日には、読者はエクスタシィの境地に達してしまう。

 

科学教覚え書き

わかろうとするためには、わかることを信じなければならない。

つまり、

第一教義

人間は、自然を「わかる」ことができる

 

この信念に従うことではじめて、自然をわかろうとする試みが生じてくる。

信念は脆い。その脆さに打ち勝つためには、論理も大切だ。論理的に示されることで、わかることをより強固に信じることができる。

人間が自然をわかることができる。ここには、いくつかの飛躍がある。

・自然という言葉の含む範囲

自然とは、自ずからそうあるもの(物質・挙動)。

・自然と人間との位置関係

・わかるという到達点の意味

 

人間が観測するものの範囲

そして、わかろうとする試みを継続するためには、わかった先に何が待ち受けているのかも明確でなくとも示す必要もある。