生存

生きようと思えるためには何にせよ信仰が必要だ。

 

信仰といってイメージするのは宗教だが、別に信じるものは宗教じゃなくてもいい。宗教に似たものとして学問の意義や素晴らしさを信じてもいいし、民主主義とか社会の大枠を定義する様々な主張に傾倒してもいい。リアルでもバーチャルでも、世界中で様々な人たちが様々な主義を重んじながら対立する人々を攻撃しまくっている。ただ一手間、ツイッターなりその他SNSなんかで関連するキーワードを検索してみればいい。さも自分が世界を変えられるような、自分だけが真実に気づいているかのような、ただの文字列を超えたエネルギーをそれらの主張から感じることができるだろう。そうした闘いに集中している人たちは皆、力にあふれている。自分の信じるものを誰かに信じさせたい。その一心で、決して何も変えられる力を持たない場末の掲示板を埋め尽くしている。ああ、なんて生を感じる場なんだろう。

 

だが別に、そんな大それた信仰だけがその人を生かし続けてくれるわけではない。社会の大きな流れに目を向けなくたって、日常の中にも信仰の対象は山ほど隠されている。

現代社会で大きな力を得ているのが資本主義だが、その中で生きていくには多かれ少なかれ資本主義を信じる必要がある。ナントカ主義なんて言葉を持ち出したのはよくなかった。ただ普段何気なく暮らしているそのまさに生活の中に、信仰によって維持されている仕組みがあふれている。なぜ働かなければならないのか。なぜ物を得るために貨幣との交換という手続きを経なくてはならないのか。なぜ今のままではだめで、成長しなければならないのか。

あるいはそれは家族や性だったりする。好きな人と結ばれて、一つ屋根の下で暮らして、子供を授かり、社会の一員としてしっかりと育てていく。家庭を磐石なものとするために、夢のマイホームを建てたり、生命保険に加入してリスク管理を行う。そして、そうした「ちゃんとした暮らし」を送ることこそが紛れもない幸せなのだと。それはすべて、社会を維持しなければならないという生命誕生以来の至上命題を達成するため。私たちが私たちであるために、先祖が形作ったものをこの世界に継承していくために。

 

私たちがこの世に生を受けてから今の今までずっと、そういった価値観を心の底から信じている人々に囲まれて暮らしてきて、そんな信仰が途切れなく生み出されている。周囲の人たちと同じようにそれらを確固として信じ続けることで、彼らと同じように生き続けることができる。

それしか、生きる道はないのだ。

あるいは、そうじゃない人は見えなくさせられていたのかもしれない。

多様性が叫ばれて久しい現代社会。社会の主流の価値観に馴染めない人々にもいくらか注目が集まっている。結婚や恋愛は私の幸せの条件には当てはまらない。労働で自己実現をするのではなく、自分らしく居れる場所を見つけたい。もっと単純な主張だと、働きたくない、など。

そうした人々の中には、こうした自分に馴染まない価値観を押し付ける社会は間違っているのだと声高に叫ぶ人もいる。恋愛至上主義は間違っている。資本主義は破綻している。この社会はもう限界を迎えている。明確な反〇〇主義の形を取ることもあれば、別の議論の中に巧妙に主張を紛れ込ませることもあるし、エッセイという形で素朴な疑問として投げかけることもある。

様々な社会運動が巻き起こる中で、主流ではない主張がなされやすくなる土壌ができた。主流の価値観を信じられない人々にとってそうした声が生きる力となることも多々あっただろう。私もそうした声に生きづらさを救われたと感じた経験はあった。今の状況や心理状態に答えが見つかったような気がして、やっと自分らしく生きることができるのだと思えた瞬間もあった。

 

でも今では、そのすべてが馬鹿らしい。

主流の価値観を信じようが、それに反発して別の生き方を模索しようが、やっていることはどれも同じなのだ。主流の価値観であれば正〇〇主義の信奉者として、傍流の価値観ではれば反〇〇主義や脱〇〇主義の信奉者として、向いている方向は違うかもしれないが同じ行動をしているだけなのだ。ただ何かを心の底から信じ、それに従い行動を起こしているだけなのだ。

アンチ〇〇が生きていられるのはその〇〇に対し逆向きの確固たる信仰心を抱いているから。脱〇〇を掲げている人も同じことだ。

皆、誰かが用意した何かを信じている。信じることで、生き続けることができる。

私はもはや、何も信仰することができない。

お金を稼がなければならないことに肯定も否定もできない。ただ、興味がないのだ。

結婚だったり、自己啓発だったり、あるいは充実した趣味だったり。この世に存在するありとあらゆるものそのすべてに心の底から傾倒することができない。

どうでもいい。その言葉が何をする時でも頭に浮かぶ。そう思う暇を与えないようにひたすら過去に好きだと思った記憶のある対象を実行しているが、それでもわずかな隙間をついてその感情が染み出してくる。

 

何も信じられないならば生きるのをやめるしかない。それかもしくは、洗脳装置によって確固たる信仰を自然と感じられるようになるしかない。正しいことを正しいと、あるいは正しいことを間違っていると、ただ強烈な電気信号によって自動的に感じさせられるのだ。そもそも自由意志なんてないのだし、こちらとしてはいつでも洗脳される準備は整っている。

なんでもいいから、何がどうなれば幸せなのか脳を細工してくれてもいいから教えてくれ。

そうできないのならばその時は。

すべての無産階級はおっさんのちんぽを勃起させるためだけに存在する

ブルーカラーたちはその待遇や対外的評価の差異が表す社会的評価の優劣によって間接的に、ホワイトカラーたちはある者は直接指導という名の罵声を浴びせかけられるような直接的な手段によって、またある者はしたり顔で3時間もかかる割に何も生み出さない会議にのみ使用される虚無を作成することによって間接的に、ハゲか小太りのおっさんたちの権威を裏付け、それによりおっさんたちのちんぽはバキバキに勃起する。

勃起には中毒性があり、おっさんたちは再び、より短い頻度で快楽を得られるように無産階級たちに無理難題を押し付ける。

だが、押しつけられる彼らもまた、いつの日か気持ちよく勃起できる日を夢見ながら、その到来を少しでも早めるべく今日もまたおっさんたちのちんぽを言われるがままにしごいてしまうのだった。

今の勃起と未来の勃起が渦巻くこの虚無スパイラルは、人類が存在する限り永遠に続いていく。おまけに、噴飯物なことに、人類は自分たちのことを知性ある生物だと感じている。

なんだ、猿の惑星ってここにあったんですね。

 

*ここでのちんぽは精神的ちんぽのため性別は関係ありません

まじで寝れん

目からビームを出してやると、観衆は大きな歓声をあげた。

満足した僕は再びビームを出す。先ほどと同じ大きさの歓声が響く。

三度ビームを。同じ歓声。

途方もない時間をかけて延々と繰り返していたら、ついにビームが出なくなった。

目をいくら見開いても、拳をいくら握り締めても、足を踏ん張っても、目の奥にある僕特有の光線発生器官は何も言わなくなった。

だが、歓声は鳴り止まなかった。それまでと全く同じように、かつてビームが飛んでいった方向へと視線を合わせて追いかける。

観衆たちにはビームが見えているのだ。僕が出ないと思い込んでいるだけで、ちゃんとそこにはビームがあった。彼らの見ている一筋の光は、僕が目を見開くたびにかなたへと飛び去っていく。

観衆たちの期待はまだまだ続く。手応えのないビームを再び、途方もない時間をかけて繰り返し出していった。

目の筋肉が痙攣してきた。あまりにも頻繁に目を見開いたおかけで、僕の顔面は限界に達していた。

強く見開くことができない。目に入らない力を補うように拳と足に力を込めるが、ビームの本質は目を見開くこと。それができないのだから想像上のビームでさえ出している感覚がない。

それでも観衆たちの興奮はおさまらない。僕が拳に力を入れるたびに、あの動きを繰り返している。出した実感のないビームを、彼らは目で懸命に追っている。

その内に握り締めた拳が血塗れになり、踏ん張りすぎた足に激痛が走り、全身が動かなくなった。

それでも観衆たちは、僕がビームを出したいと思うタイミングに合わせて同じ動きを繰り返していた。

僕が意識を失ったとしても、彼らは何かに合わせてこの繰り返しを続けるのだろうか。

何を根拠に? 何を求めて?

おさまらない歓声を浴びながら、逃げ場のない僕はかろうじて動く口でこう呟いた。

「僕たちってどうすればいいですか?」

まあ、

なんかよろしくない結果だったとしても、自然と受け入れられそうだ。

なんだって今までがずっとそうだったのだから。

 

とはいえ、何か希望を持ってしまう自分もいる。

ちょっとばかり、プラスの変化が起こったっていいじゃないか。

褒められる行為を積み重ねてきたわけじゃないが、それくらいは許されるだろう、という。

 

すべては自分がかわいいから。

傷つけられたくない、この脆く儚い自我を。ようやく形作ることのできた自我を。

それとも、「やっぱり」と思いながら傷いた経験が自我を傷つけ、元々の自分をさらけ出してしまうのか。

 

無我、空、仏教観念が頭をめぐる。

結局何もなかったならば、最後にすがるのはここなのだろうか。

伏し目がちな節目の中で

大きく人生が変わる節目に、大きなことが起こる。
大学合格のときも、そして今も。

大学時代は自分の中に大きな変化をもたらした時間だった。産まれた街を離れ、家族から距離を置くことができた。誰の目も気にすることなく、初めて自分のためだけに過ごした日々。何が好きか、何が嫌いか。一人暮らしをさせてもらった中で、ようやく自分というものに向き合う時間を得ることができた。実家に本棚はなかった。地方都市の周りには何もなかった。お金もなかった。本を読む習慣も、他の文化的な営みをする習慣も身につかなかった。それが、有り余る時間と、自分に向き合う機会を得て、少しづつ、自分の中に蓄えられていった。
その始まりは、あの記憶からだった。
大火、海水。市長とすら連絡がつかない。
一瞬にして何もかもが失われていった光景は、直接の被害がなかったわたしの心からも、一時的にしろきらきらしたものを奪っていった。
合格発表の翌日だった。
楽しさ、解放感。そんなものは簡単に流されていった。一夜明けて、余韻に浸る間もなく流されていった。

そして今。
会社を辞めると宣言したすぐ後に、ヨーロッパで感染が拡大した。
これからを考えようとしていた矢先に、その前提が崩れていく。

まただ。
大きな世界と小さな自分を結びつけてしまうのは自意識過剰でしかないのだけど、そんな風に感じてしまう。偶然でしかないはずなのに、何か因果関係でもあるのではないかと感じてしまう。

大学時代の経験が、今の私の基礎となった。あの期間がなければ、私は私という意識すら持てなかったはずだ。
その、意義深い期間は、あの忌まわしい記憶から始まった。

似た構造が、今回も。
だから、私のこれからも、あのときと同じように私にとっての大きな変化をもたらしてくれる期間となるのかもしれない。何かからの解放を約束してくれるのかもしれない。
今だって私には直接的な影響はない。あのときと同じように。
だから、少なくとも私の人生を考える限りは、この記憶が、変化の始まりとして刻まれるのかもしれない。

地域によっては少しだけ、収束の兆しが見えている。
なんだって、いつかは終わりを迎えるはずなのだ。そしてその終わりは、私の変化の始まりと重なるはずなのだ。

だが、違いもある。
こびりついた抑うつ。薄曇りの気分を晴らすような気力が、私の中に残されているのだろうか。
今度の解放は、いよいよ、生きることからの解放なのかもしれない。それは、もう二度と、節目を作らなくていいことにもつながる。