精神の上下振動

部屋にごきぶりが出ましたが…清潔感のあるモリチャバネゴキブリでした!

家に住み着くことはない(はず)ので安心! おまけに無闇なテカリがなくて眺めていても嫌悪感がありません! やったね!

やたら飛び回ってて多分モリだと思っていたけど、一応チャバネじゃないことを胸部の黒い筋で確認するために顔を近づけたら、動きを止めて顔を向けて触覚をピンとこちらに立たせてくるではありませんか。ハエトリとかもそうだけど(視覚優位の生き物をここに出してくるのはあまり比較対象として良くないかもですが)、こっちの動きに合わせて反応してくれる生き物は見ていて飽きないし可愛さをより感じられますな。

適当にサンダルに乗せてドアからポイっ。また来ていいよ、とまでは言いませんが(食糧もないし)、まあお互い平和に解決したということで一件落着。

みんなもマクロ生物学を専攻して身の回りの生き物たちの可愛さを存分に味わいましょう。そして人生を棒に振ろう…

マックブック

感銘を受けた点

・時系列、空間的に重層的な構造は読む者を物語の世界へと引き込む力があった

・空間的な重層性は(物語における)現実と(作中の)漫画という軸においても展開し、二人で築き上げた漫画が、残された主人公にあり得たかもしれない世界線を想起させる構成は感動的であった

・二人の主人公だけに注目すれば、どちらのどの世界線での生き方も不正解とは言い切らない寛容さを感じられた(どの世界線においても、どちらも一度は満面の笑みを見せてくれる)

・表情や画面構成の巧みさ

 

問題を感じた点

・ネット上でも散見されるが、あの場面の犯人の描写に尽きる

→私がまず初めに感じたのは、あまりにも実在の事件を意識させすぎることである。舞台設定は現代日本であるが、読者はあくまで架空の人物たちの物語であるとみなしている中で、何の脈絡もなく実在の事件を想起させられると読者の中に築き上げてきた世界観が崩れてしまうのではないか。とりわけ社会的に多大な影響をもたらした事件であり(もちろん事件の大小には依らないが)、作者の意図しない文脈や情報を読者が勝手に付け加えてしまう。作品への感じ方にも影響するだろうし、作者として望んではいないはずだ。

→次の観点は、これを明確に感じられなかった自分を恥じたいのであるが、特定の疾患に対するスティグマを増長される恐れのある描写になっていることだ。犯人の登場にはとにかく文脈がなく、舞台装置としてしか機能していなかった。物語を構築する上でどうしても死が避けられなかったとしても、それは取材と称した旅行先での事故でも達成されたはずだ。それならば死亡した主人公がもう一人の主人公によって活動的になったために悲しい結末を迎えてしまったと繋がり、破り捨てた漫画のコマにも結びつけられる。とにかく、犯人に関する全てに必然性がなかった。またこのことは先程の事件に対する被害者感情などの点からも同様に言えるのかもしれない。

 

差別的な表現があるからといって即発禁にしろと言うわけではない。自由という根深い問題にも関わるし、こうした表現が人々が無意識に持っている差別感情に気づかせてくれる一つのきっかけとなるかもしれない。事実、私はこの作品に誘発された議論によって自分に足りない観点を得ることができた。ただ、様々な人々の存在が可視化されてきた現代において、さらに歴史的にも大きく取り組まれてきた課題に対して、作者、編集者ともに思慮が浅いと思わざるを得ない。それでは何も書けなくなるではないか、というのは思考停止だ。ただ、創作する、つまり世界を作る神様になる時に、細部に至るまで責任を持ってほしい。その人物がなぜ悲しい結末を迎えさせる必要があるのか、辛い経験をさせる必要があるのか、作者にしかわからない言葉であっても筋道立った説明を用意してほしい。現実世界を作った神様はそこまで考えなかったかもしれないけれど、創作者という素晴らしい世界を見せてくれる特別な存在にはそれができるはずだ。

アザラシの鳴き声

最近、信じられないことだが、きゅうりをそれほど嫌いな食材ではないと感じることが増えてきた。これまで生きてきて、きゅうりを好きだなんて思ったことはたった一度だってなかったはずなのに。それほど嫌いな食べ物はアイデンティティにまで昇華されうる(cf. 『鬱ごはん』第90話)というのに。

きゅうりが何よりも嫌いな自分というのが、揺らぎ続けて生きてきた自分のほとんど唯一の拠り所だったかもしれない。目の前の状況で適切そうなルートを選び、その道で上位でもなく下位でもない、中途半端な道を歩き続けてきた。でも、どの道を歩んでいる時だって必ず、きゅうりが嫌いだ、きゅうりのあの独特な青臭さが嫌いだと、ずっと思ってきたはずだった。

それがどうだ。

今日注意せずに買った寿司セットにかっぱ巻きが入っていた。流石に食材を捨てるのは申し訳ないので、仕方なく真っ先に口に入れて消し去ろうとする。少し多めに醤油をかけても消えない青臭さに、やはりこれだと、幼少期から続けてきたアイデンティティが物申す。かと思いきや、この臭みは脂ものが続いた後の清涼剤としては良いのかもしれない、なんて軟弱な考えが浮かんできたではないか。ああ、私のアイデンティティは崩壊した。これまでのこの青臭さなら耐えられるという程度の感想ではなく、ましてやきゅうりに対してわずかにでも好印象を持ってしまっただなんて。

急いできゅうりを憎むものたちの書き込みを検索する。そうだ、やはりあの臭いが問題なんだ。つい先ほどまで確信していた私の印象を補強する文言ばかりが並んで、安堵しかかる。だが、それは私ではない。現実の、紛れもない私は、きゅうりに少しでも好印象を抱いてしまった私なのだ。

逆に高級なきゅうりの売り文句を探して、きゅうりの魅力を最大限に感じ取ろうとした。もう頭の中はめちゃくちゃだ。きゅうりのことを嫌いになるのか、好きになるのか、どちらを取ればいいのか全くわからない。プラス面もマイナス面も全て調べて、だからこそ何もわからないまま時間を消費してしまう。きゅうりを好きだと言ってしまえば幼少期からの自己同一性が失われる気がする。だが、その気持ちを無視してしまうのは現についさっきそう感じてしまった自分を無視してしまうことになる。

どうすればいいのだ。そう思いながら少し頭の中が冷えてきたところである記憶にたどり着く。

そういえば小学生くらいの時、きゅうりのことをそれほど不味く思わなかったことがあったっけ。

調理実習で、その時何を作ったのか覚えていないが、ポテトサラダとかそんな感じだったはずだ。基本的なレシピを教えるものだからもれなくきゅうりが入る(異論はあるかもしれない)。もちろん原材料を見たときに私は嗚咽に近い気持ち悪さを感じたものだ。だが実習は容赦無く、全ての生徒に同じ材料を使わせる。息を止めて、何も感じないままに試食をしなくてはならないのかと絶望しかかったその時、レシピの文言に光を見た。

「きゅうりは臭みをとるために叩きましょう」(本日のレシピのポイントです)

きゅうりの何が嫌いかといえばその独特の臭みだった。私はその文言を信じて一心不乱にたたき続けた。汁が飛び散ろうとも、中の淡い緑色が見えかかろうとも気にせず叩き続けた。それが、私が調理実習を無事に乗り越えられる唯一の方法であると信じて。

結局出来上がった何かからは、ほとんどきゅうりの臭いがせず、私でも割と美味しく食べられたような記憶があった(きゅうりを叩いて臭みが取れた以外の記憶はほぼないため脚色しています)。

結局、小学生時分にそんなちっぽけなアイデンティティは失われてしまっていたのだった。

別に食材の好き嫌いに自分を見出さなくてもいい。そんなわけのわからないこだわりを持ってしまうから、今私はレールから逸れて無職になっているのだろう。でも、それ以外の生き方を知らないってのも考慮に入れておいてくれ。たとえ、この先きゅうりが好きな食材になろうとも。

都道府県魅力度ランキング

第  1位 岐阜県  理由:岐阜だから

 

  2位 北海道  理由:岐阜ではないから

  3位 青森県  理由:岐阜ではないから

  4位 秋田県  理由:岐阜ではないから

  5位 岩手県  理由:岐阜ではないから

  6位 宮城県  理由:岐阜ではないから

  7位 山形県  理由:岐阜ではないから

  8位 福島県  理由:岐阜ではないから

  9位 茨城県  理由:岐阜ではないから

第10位 栃木県  理由:岐阜ではないから

第11位 群馬県  理由:岐阜ではないから

第12位 埼玉県  理由:岐阜ではないから

第13位 東京都  理由:岐阜ではないから

第14位 千葉県  理由:岐阜ではないから

第15位 神奈川県 理由:岐阜ではないから

第16位 長野県  理由:岐阜ではないから

第17位 山梨県  理由:岐阜ではないから

第18位 静岡県  理由:岐阜ではないから

第19位 愛知県  理由:岐阜ではないから

第20位 三重県  理由:岐阜ではないから

第21位 新潟県  理由:岐阜ではないから

第22位 富山県  理由:岐阜ではないから

第23位 石川県  理由:岐阜ではないから

第24位 福井県  理由:岐阜ではないから

第25位 滋賀県  理由:岐阜ではないから

第26位 京都府  理由:岐阜ではないから

第27位 大阪府  理由:岐阜ではないから

第28位 兵庫県  理由:岐阜ではないから

第29位 奈良県  理由:岐阜ではないから

第30位 和歌山県 理由:岐阜ではないから

第31位 岡山県  理由:岐阜ではないから

第32位 広島県  理由:岐阜ではないから

第33位 島根県  理由:岐阜ではないから

第34位 鳥取県  理由:岐阜ではないから

第35位 徳島県  理由:岐阜ではないから

第36位 香川県  理由:岐阜ではないから

第37位 愛媛県  理由:岐阜ではないから

第38位 高知県  理由:岐阜ではないから

第39位 山口県  理由:岐阜ではないから

第40位 福岡県  理由:岐阜ではないから

第41位 大分県  理由:岐阜ではないから

第42位 長崎県  理由:岐阜ではないから

第43位 佐賀県  理由:岐阜ではないから

第44位 熊本県  理由:岐阜ではないから

第45位 宮崎県  理由:岐阜ではないから

第46位 鹿児島県 理由:岐阜ではないから

第47位 沖縄県  理由:岐阜ではないから

 

都道府県の並び順って思想が出るよね。

🤔

不意に社会に触れてしまい、またうんざりしてしまった。

彼は変人という自意識がありながら持っている価値観は全てわかりやすい社会の反映でしかなかった。どういう仕事をしたいのか、どういう暮らしを送りたいのか、どういう人になりたいのか。別にどこかの自己啓発書のコピーと言えるほど典型的なものではなかったけれども、根本の部分は同じだった。茶番だな、なんて思いながら彼が大きな声で捲し立てる話を流し聞きしていた。

なんなら声のでかいビジネスマンやら政治家やら批評家やらなんやらすべて茶番野郎で、行動原理がすべて己の意思とは無関係に付加された性欲のみに還元されることに気付いていないのか隠しているのか知らんがそんな単純な理屈にゴタゴタと装飾を並べて着飾ってるだけのやつが社会を構築している。この世のルールはただ性欲を気付かれずに美しく着飾ったものが勝つというものでしかなく、それはヒトが遺伝子の乗り物である限り資本主義だろうが共産主義だろうが変わりないのだろう。

茶番になってしまうのはビジネスやらが表面的にはそういう欲望を覆い隠せる言説をふんだんに用意しているためであって、表現そのものを切り売りする職業ではそんな欲求に僅かながらでも自覚的にならざるを得ず、だからこそ私はその生産物を純粋に享受できるのだというのは、私の趣味を肯定するための言い訳として付記しておく。そうは言ってもそんな冷笑をしてお前は一体どういう思想で消費しているのだという指摘はごもっともで、これにもまた誠実に回答しなくてはならない。

性欲は人より弱い自覚がある。それは人と話したりネットの書き込みなんか見ていて確信していることだ。だから、外部から見たときにどうせそれ目的なんだろうと言われる性欲は、この趣味を趣味とする動機ではない。去勢したって今と同じように好きでいられる自信はある。

ただ別に直接的な性欲ばかりが制欲の表出とは言えない。人からよく思われたいだとか、そんなやましい気持ちはあるし、その延長線上にあるような、自分のアイデンティティを構築する一つのわかりやすい要素としてその趣味を求めるというのも、遠回りには性欲の表出だ。その気持ちは少なからず認めざるを得ない。それほどメジャーではないものを探し出して、この部分が良いのだとか、ここの背景にはこういう物語が隠されているのだとか、人に伝えられる程度の魅力は語れるつもりだ。そしてそれを用意するのは、他でもなく性欲の遠回りな表出としての感情がそうさせている。それがなければ別にただ己の感覚だけで好んでいればいいだけのことだからだ。とは言え、用意した魅力の語り口を披露することはない。コミュニケーションが不得手なのもあるが、そもそも人と関わるのが面倒なのだ。会話の機会があったとしても、そもそも長い言葉を発するのすら面倒で、楽をするためだけによく聞き手に回ってしまう。認知されるのも苦手だし。自閉傾向といったところだろうか、遺伝的な要因もある変えられない特性なのだ。だから、これも主要因ではない。

結局は救いを求めているのだろうな。これが今の暫定的な答えとなるだろうか。漠然とした曖昧な回答になってしまったが、今の語学力ではこの程度の表現しか思い浮かばなかった。かわいさを求めてたどり着いた今の趣味。その中で、そのかわいさを表現する演者にも興味を抱くようになった。かわいさに溢れ、ただこちらを楽しませてくれるためだけに練られたステージは、集中力のない私にも視線を釘付けにする魅力があった。現実では絶対に関わらない人たちとコミュニケーションを取る時間も、他の何もかもから目を背けるゆとりをもたらしてくれた。

とにかく社会に触れたくない。綺麗事ばかりを並べるわりに、内実は全くどろどろとした汚いものに溢れた社会を見たくない。金を稼ぐのならそれに集中しろ。上司が、取引先が、あの相談役が。どうせ誰も責任を取らない諸々の関係に縛られるな。

わかりやすさは誠実さに近い部分がある。私はその時間を価値あるものと判断したからそこにお金を払った。それは本当に単純で、だからこそ茶番の入る隙がない。

私が受け入れるのはそうした誠実な事物であった。誠実さという言葉は、趣味を続け、その感情に向き合った結果得られた副産物だ。これこそがようやく見つけた人生のテーマと言って良い。自分の殻に閉じこもりながら、その不完全な殻に開いた裂け目に誠実な瞬間を埋め込んで、その殻の中だけでも自分が納得できる整合性を保ち続ける。それは、ズタズタに引き裂かれた自己肯定感を補って、死ぬまでに少しでも自分を受け入れられる瞬間を感じるべく行われる、ただ自分のためだけの闘いなのだ。