管理され、ある場所から外に出ずに一生を終えるような暮らしは、ディストピア的と思われている。
自由意思が保障され、好きな時に好きなところに好きなものを好きな人と、そんな暮らしが理想的だと思われている。
わたしもそう思っていた。
けれども、「好き」の制限を思ってから、上の2つの暮らしがどちらも同じようなものに感じられてしまう。
「好き」は、与えられた範囲から出ることができない。
一生同じ都市に閉じ込められることと、一生日本から出ないこと、一生地球から出ないこと、一生銀河系から出ないことと。どれも自分の知る世界の中で完結する暮らしだ。
音楽が好きだ。でもその音楽は、自分の可聴域の中でしか楽しめない。
美しい風景を見た。でもその風景は、自分の視覚の範囲にしかない。
…
「好き」はすべて、自分が人間であること、自分がこの身体であること、日本語が母語なこと、これまでの経験…なんかに制限されて、その中にあるものしか対象にできない。
鳥のように、4色型の色覚だったら世界はどう見えるだろう。
一部の昆虫のように、紫外線も見えたらどうだろう。
超音波が聞こえたら、
もっと香りに敏感だったら、
…
自分の「好き」に飽きはじめて、なんか人生飽きてきた。