ほも・さぴえんす

大学受験の時は物理や化学が好きで、考えの流れに乗って次から次へと答えが出てくる感覚が心地よかった。

身の回りの物質や現象がこうも理路整然と説明されるのだと、いわゆる自然科学の美しさの一端に触れた気持ちになった。

 

でもある時、

自然「が」説明「される」のではなく、自然「を」説明「している」

と思ってから、そんな心地よさや美しさも茶番となった。

 

論説や小説を読まされて内容理解を問われているのと変わらない。

認識できる対象を、理解できる方法で、納得できる流れに落とし込んだ物語を、どれだけ覚えているかを問われる。

すべて、人間が作り別の人間が評価した物語を使って、また別の人間が作った基準で選別している過程なんだ。

 

 

受験からだいぶ経ち、当時の内容などほとんど抜け落ちてしまったけれども、上の感覚はそのままだ。

むしろ、人間以外の生き物をつぶさに観察するようになって、茶番に思う感覚は強くなった気がする。

他の生き物は、また他の世界を見ていて、その中で生きているように感じる。

人間の見ている世界は、その中の一つに過ぎない。

 

確かに、科学によって様々なものが生み出され、利便性が高まり、幸せが増した面もあるだろう。

だがそれは一面であり、あくまでも科学を受け入れている存在の中だけで享受されているものだ。

 

科学という物語は、それを楽しめる者の中で完結させておくべきで、そこから拡散させようとするのは、人間社会の多数派となってしまった者たちの傲慢なのかもしれない。