にぼし その1

最近にぼしをよく食べる。

帰ってきたらすぐに、野球を見たりマインスイーパをしたりしながら、それこそ食事の代わりと言わんばかりにばくばくと食べてしまう。

 

 

ただ、食べている時にふと感じてしまうことがある。

にぼしひとつひとつに頭があり目があり口があり、自分とあまり変わらない顔がついていて、どれもがかつて生きていた存在なのだということを。

何気なく食べてしまった一口一口すべてに、命があったのだということを。

 

他者の命をいただくことで自身の命が成り立つ生き物がいて、人間もそのひとつであって、自然界はそのように成り立っていることはわかっている。

だから、にぼしが自分と近い見た目だからといって、そこにとりたてて命をいただくことを感じるのは欺瞞だし傲慢なのだろう。

それでもふと、にぼしの顔を見てしまうたびに、数分の内に食べてしまった何十個の命と、自分の命とを思わずにはいられない。

 

 

命は平等だなんて言葉がある。

そんなことは全く嘘っぱちだと思うし、にぼしと自分とを考えるだけで偽りだと判断できる。

そうだとしても、数分で消え去る何十個の命と、それを踏み台にこれからもしばらく残り続けるたった一個の命という関係は、どうして成り立っているのだろう。

 

もともとの命の継続時間が違うから?

身体の大きさが違うから?

 

ぱっと思い浮かぶことを並べると、それは人間の中でも違っていることばかりだ。

国とか地域の平均寿命の違いは、にぼしと自分のような関係性を成り立たせるのか?

そんなことはあってはならないと、現代の倫理観が否定するだろう。

 

生物種が違うから?

 

人間の中で違ってしまうことを無視するなら、人間かそうではないかで分ければよい。

にぼしは人間ではないから、上のような関係が成り立つ。

それなら人間ってなんだろう。人間かそうではないかは何で決まるのか。

そもそも種という分け方が恣意的で、科学の対象として変わりうるものである。

人間であることを根拠にするのは、関係性が不安定なままで、成り立つところまでいかないような気がする。

 

 

考えをもっと広げたところで、答えは出ないような気がする。

自然界がそうなっているから、で片付けるべき問題なのかもしれない。

それでも、にぼしの顔を見るたびに思ってしまう。自分の命は、にぼし何十匹分の命を土台にしてでも維持していく価値があるのだろうか。

 

そう思ったところでお腹は減るし、身体が早く何か食べるよう訴えてくる。

今日も心と身体のせめぎあいの中で、にぼしの顔から目を逸らしつつも、何度も何度も口に運んでしまう。