自覚2

生きるのに疲れたという感覚を持って久しい。

だから、限られた時間の中で満足を求めていきたい。

 

生きてきた中で感じたことは、人類が馬鹿だということ。

そして、現在主流となっている人種たちは自分たちのことを賢いと思っている。

このクソみたいな社会のクソみたいなところを自分の中だけでも消化できれば、心置きなく死ぬことができるし、もし仮にまた生き物に生まれ変わりさせられそうになっても、現世で得た信念が助けてくれるはず。

ただ、頭の中で持っているだけでは不安だ。十分に書き切れるとは思えず、単なる羅列のようになるのかもしれないが、今の思うところを書いておくことで、後で見返すための羅針盤になればよい。

 

平成の日本でしか生きていない私にとって、閉塞感というのは大きなキーワードとなる。目指すべきものがなくなった時代。一方で課題は顕在化してしまった時代。

そんな時代を生きていれば、否応無しに社会に対して疑問を持ってしまう。

別に、政治とか、ジャーナリズムとか、労働とか、そんな瑣末な事柄に問題意識を持っているわけではない。馬鹿を凝縮したような振る舞いに、そもそも興味が持てない。

そうではなく、もっと漠然とした社会の常識に対する疑問である。

地球上の多くの人が染められてしまっている価値観はたくさんあるだろう。

他の生物に対する人間の特権意識。科学に対する信頼。経済成長の肯定。

日本がどうのこうのとかではなく、もっと人類の大多数に当てはまるような事柄に対して、否定をしていきたい。

人間の特権意識は馬鹿丸出しなので言わずもがな。覇権を握っている自然科学に対しては、それは宗教でしかないという観点から見てみる。ひとりでに失敗してしまった社会主義だけじゃなくて、資本主義ももう限界にきている。有限の物体で生きていくしかできない存在のくせに、成長以外の評価軸は用意していなかったのか。

とはいえ結局、これらも瑣末な事にすぎない。人間の活動の一部をとって、小さな穴を見つけているだけにすぎない。

ただ、小さな穴もたくさん空ければ崩壊につながる。

人間活動の見かけの複雑さを崩壊させて、人間という存在を単純化したい。

人間と人工知能の対比ではない。機械として作り上げることができる程度の、反応を返す単なる箱であると信じられるようになりたい。

その一環として、倫理観とか、個々人に紐づく精神的なものも単純化ができるだろう。

 

と書いてきて、はっきりと、馬鹿なのは自分なのだと感じられた。

いや、初めからわかってはいたのだが。

自分のことがあまり好きではない私にとって、周りの人々を馬鹿にしていくことは、生き延びていく術であった。周りの人間を馬鹿だと心底思えることができれば、そこに妬みもなんの感情もない。相変わらず自分のことが嫌いだったとしても、鏡を見ながら顔を殴りつけるくらい嫌いだったとしても、比較する対象がなければ、存在は許容された。

とはいえ、馬鹿にすることは際限がない。年齢を重ねるごとに関わる存在は増えていくし、インターネットがあれば、目の前にいない人たちの存在も認識してしまう。その中で、馬鹿にする対象は無尽蔵に増えていき、最終的には大多数の人類を対象としなければいけなくなった。

で、疲れてしまった。まあ、馬鹿な自分が満足できる大多数の人類を馬鹿にできる何かが見つかれば、そこが潮時なのだろう。生きるのに耐えられなくなるのが先かもしれないが、そこら辺を「普通」に代わる生き方として、特に努力はせずに歩いていく。

 

 

結構恵まれてるように思っているのだが、なんでひねくれてしまったんだろう。

お金の苦労はほとんどさせられたことがない。人間関係もまあ、人生の後半になるほど良くなっていったような気がする。勉強にしろなんにせよ、特に努力することなく平均点は出せる。

きょうだい児であることとか、何かしらキーワードはあるのかもしれない。そんなことを貪るように調べていた時もあったけど、生きる術を手に入れた後では、大して影響もなかった。

なんやかんや言って、愛されるとかそういう瑣末なことでパッと開かれるのかもしれない。やっぱり私は馬鹿なのだ、それゆえに。