ディストピアについて

 ありきたりであるが、1984年の素晴らしさに感銘を受けて以来、ディストピア成分のある小説が好きになった。ガチガチの世界観にどっぷり浸かり、往往にして体制側の立場に立ってそこでの暮らしや思考について思いを馳せる。側から見ればその世界のベースは今暮らしている社会とそれほど変わらないように感じる。それでも一分の隙間もない完璧な社会が構築されていて、わずかな違いがこのような世界を作り上げているのだと思うと、逆説的に今いる社会の不安定さにゾクゾクする。小説で描かれている社会と比べれば、暮らしている社会はディストピアとは到底言えなさそうだけど、しっかりとそうなる可能性を孕んでいるのだと。

 と思えているのは、我々がディストピア社会の中の住人であるからなのではないか。ディストピア社会の住人の多くは、自分たちがディストピア社会の住人であるとは思っていない。まあそれは、体制の維持を強固にするために意図的に他の社会の情報が遮断されているからというだけなのだが。この点は小説でも現実でもディストピア的な社会の共通事項のように思われる。

 その点、特に先進国と言われる社会体制では、個人が得られる情報の幅も広く、他の体制と比較しながら自分が所属する社会を批判することも許される。もちろん全ての情報が得られるわけではないにせよ、体制側が自身に都合の悪い情報のみを意図的に隠しているようには見えないし、その点で私たちが暮らしている社会はディストピア的ではないと思われている。

 ただそれが、思わされているだけだとすれば?

 都合の悪い情報が隠されることは、許されないことである。我々にはそのようなことは一切ない。批判記事が報道されることもあるし、個人が体制を批判することも許容している。意見表明の場として選挙制度を導入していて、その批判を形にすることもできる。ゆえに我々はベストではないにせよベターな社会制度なのである、と。

 ディストピア小説ディストピア小説たらしめているのは、上述の事柄を我々が信じているという点である。批判が許されること、自由があること。こうしたことが良いという信念が、そうではない体制をディストピアだと感じさせているだけなのだ。

 少なくとも小説の中では、ディストピア社会においてその体制に疑問を持たない多くの住人たちはそこまで不幸を感じていないように思える。自由を得た反面、自由によって攻撃される恐れがあるより、不幸の総量は少ないかもしれない。

 

 信念を余儀なく持たされるという点では、ある国の社会体制というレベルだけではなく、グローバルな規模でも同じなのかもしれない。お金の価値を信じないで生きることはこの地球上ではなかなか難しそうだし、それに伴って労働からも逃れにくい。人との関わりであったり、向上心を持つことであったり、信念の強制力には大小があれども、何かの価値を信じなければならないということからは逃れられなさそうだ。

 息苦しさとか虚無感とかを和らげるために、こういった価値を相対化して、その呪縛から解き放たれることがヒントになるかもしれない。

 

【追記】

 書いてるうちにちょっと思ってきていたのとずれていたので追記。

 フィクションで描かれたり現実にそうと思われているディストピアのような絶対的なものとして君臨する体制より、今我々がディストピアではないと思いながら暮らしている社会の方が不誠実で、それ故より酷いのではないかと感じている。他の体制の可能性を示し、そちらの方が良いと思うことを否定しないという自由を標榜しながらも、現実的にはお金のように組み込まれた価値観からは逃れられない。強制はしていないですよと言いながら結局押し付けてくる、そんな現代社会のスタンスに辟易している。