冷やし笑顔やめました

眠れずに日の出を迎えてしまったが、そのポジティブな副作用として社会に対する冷笑をやめようと意識した。妙に高いテンションとなり、これは単なる軽躁でしかないのかもしれないけれども、見ていた動画や最近読んだ本、行ったイベントの影響も相まって、自分が何を大事にすべきなのか、その光を視界に収めることができた。

社会に対して冷めた目を向けることがなくなったとしても、それは社会に対して真剣に向き合うこともただ迎合することも意味しない。社会を視界の脇に置き、自分の内側に問いかけながら大切にすべき価値観を醸成していく。おそらくそれは一言で言えば誠実さという言葉に集約されるものであるだろうか。社会や他の人に向けてではなくただ自分のために、何かを吸収しまた別の何かへと表現していく。その際、決して自分を見失うことなく、そして嘘をつかない。自分が大事だと思うことを、一才の妥協なく表現に込める。気力体力はどんどんなくなっていく。肉体的な問題でできないことも多くなるだろう。それが短期的な妨げになるとしても、産まれ持った特性だから仕方ない。だが、わずかにでも気力があるのならば、それを誠実に自分の表現に注がなくてはならない。半歩ずつでも踏み出さなければならない。一年に数歩でもいい。後ろにさえ戻らなければ。

しばらくの間は生きることをやめないだろうが、そうなれば現実的な問題として社会との関わりは避けられない。だがそれも自分の誠実さへの挑戦だと思えば、耐えることくらいはできるはずだ。無意識の中に社会が浸潤しないよう意識する。触れざるを得ない社会に自分が納得できない何かを見つけた時には、それを反面教師として価値観を深めていく。そういう風に考えれば、社会の出来事は全て自分で自分が納得できる存在となるためのきっかけだと捉えられる。

どうせまた気分は落ち込んでしまうのだろう。そしてそれを耐えれば、また少し今日ほどではないにしろ気分は上がってくるはずだ。バラバラの振幅で振動している自分の精神状態。次の頂上では、自分に対する納得が一つ増えるように、麓へ向かって歩き出す。