アザラシの鳴き声

最近、信じられないことだが、きゅうりをそれほど嫌いな食材ではないと感じることが増えてきた。これまで生きてきて、きゅうりを好きだなんて思ったことはたった一度だってなかったはずなのに。それほど嫌いな食べ物はアイデンティティにまで昇華されうる(cf. 『鬱ごはん』第90話)というのに。

きゅうりが何よりも嫌いな自分というのが、揺らぎ続けて生きてきた自分のほとんど唯一の拠り所だったかもしれない。目の前の状況で適切そうなルートを選び、その道で上位でもなく下位でもない、中途半端な道を歩き続けてきた。でも、どの道を歩んでいる時だって必ず、きゅうりが嫌いだ、きゅうりのあの独特な青臭さが嫌いだと、ずっと思ってきたはずだった。

それがどうだ。

今日注意せずに買った寿司セットにかっぱ巻きが入っていた。流石に食材を捨てるのは申し訳ないので、仕方なく真っ先に口に入れて消し去ろうとする。少し多めに醤油をかけても消えない青臭さに、やはりこれだと、幼少期から続けてきたアイデンティティが物申す。かと思いきや、この臭みは脂ものが続いた後の清涼剤としては良いのかもしれない、なんて軟弱な考えが浮かんできたではないか。ああ、私のアイデンティティは崩壊した。これまでのこの青臭さなら耐えられるという程度の感想ではなく、ましてやきゅうりに対してわずかにでも好印象を持ってしまっただなんて。

急いできゅうりを憎むものたちの書き込みを検索する。そうだ、やはりあの臭いが問題なんだ。つい先ほどまで確信していた私の印象を補強する文言ばかりが並んで、安堵しかかる。だが、それは私ではない。現実の、紛れもない私は、きゅうりに少しでも好印象を抱いてしまった私なのだ。

逆に高級なきゅうりの売り文句を探して、きゅうりの魅力を最大限に感じ取ろうとした。もう頭の中はめちゃくちゃだ。きゅうりのことを嫌いになるのか、好きになるのか、どちらを取ればいいのか全くわからない。プラス面もマイナス面も全て調べて、だからこそ何もわからないまま時間を消費してしまう。きゅうりを好きだと言ってしまえば幼少期からの自己同一性が失われる気がする。だが、その気持ちを無視してしまうのは現についさっきそう感じてしまった自分を無視してしまうことになる。

どうすればいいのだ。そう思いながら少し頭の中が冷えてきたところである記憶にたどり着く。

そういえば小学生くらいの時、きゅうりのことをそれほど不味く思わなかったことがあったっけ。

調理実習で、その時何を作ったのか覚えていないが、ポテトサラダとかそんな感じだったはずだ。基本的なレシピを教えるものだからもれなくきゅうりが入る(異論はあるかもしれない)。もちろん原材料を見たときに私は嗚咽に近い気持ち悪さを感じたものだ。だが実習は容赦無く、全ての生徒に同じ材料を使わせる。息を止めて、何も感じないままに試食をしなくてはならないのかと絶望しかかったその時、レシピの文言に光を見た。

「きゅうりは臭みをとるために叩きましょう」(本日のレシピのポイントです)

きゅうりの何が嫌いかといえばその独特の臭みだった。私はその文言を信じて一心不乱にたたき続けた。汁が飛び散ろうとも、中の淡い緑色が見えかかろうとも気にせず叩き続けた。それが、私が調理実習を無事に乗り越えられる唯一の方法であると信じて。

結局出来上がった何かからは、ほとんどきゅうりの臭いがせず、私でも割と美味しく食べられたような記憶があった(きゅうりを叩いて臭みが取れた以外の記憶はほぼないため脚色しています)。

結局、小学生時分にそんなちっぽけなアイデンティティは失われてしまっていたのだった。

別に食材の好き嫌いに自分を見出さなくてもいい。そんなわけのわからないこだわりを持ってしまうから、今私はレールから逸れて無職になっているのだろう。でも、それ以外の生き方を知らないってのも考慮に入れておいてくれ。たとえ、この先きゅうりが好きな食材になろうとも。