答え

ほんとうは眠りたいのに身体が言うことを聞いてくれないのでここで時間をつぶす。

現代社会を大きく特徴づける巨悪ことインターネット。わたしが小学生の頃はまだアンダーグラウンド感があって、フラッシュ動画やテキストサイトで純粋な熱意やブラックジョークがひっそりと交わされるばかりだった。そこから20年以上経ち、生活の隅々まで進出した電脳世界は、もはや現実との境目も曖昧で、空気のような当たり前に思えるほど存在を大きくしていった。

そんな何億回も言われ続けてきたような言葉も、毎日のように繰り返して唱えていなければ自分の身も心も汚染されてしまう。大きく膨れた危機感がネットの海に向かう指先に逆向きの力を加え、けれども虚しくまた今日も目の前にSNSやら何やらの画面が広がるばかりであった。

とは言え、強大なインターネットにただ汚染され続ける毎日というわけでもない。

何を表示するかをわたしはまだ自分で決めることができる。検索キーワードに少し工夫を加えたり、SNSでは自分の人生に必要のないアカウントを容赦なくブロックすることができる。SEO対策といたちごっこになったり、際限なく気に入らないアカウントは現れるけれど、それでもそんなちっぽけな抵抗が明日の自我を残してくれるような気がして、今日も明日もまた同じ作業に勤しんでしまう。性格の悪い発言だが、「このアカウントをブロックする」欄をタップするたびに生きている実感に近いものを感じるのだ。

ここで終われば本当にチラシの裏の自分語りだが、小学生からインターネットに触れてきたネイティブ世代として、あるいはネットに汚染された社会のさまざまな側面を見てきて気づけた、「信じなくて良い人の簡単な判定基準」をここに記しておこうと思う。

それはただ、「答えを提示する人」には耳を貸さなくて良いというだけだ。

身の回りにはあまりにもブラックボックスが多すぎる。常日頃触っているスマートフォンがどことどのように通信しているのか、機械自体はどうして動いているのか、そもそもどんな経緯を経てそんな物体が生まれたのか、解説記事はインターネットにだってごまんと転がっているのに、あまりにも幅が広すぎてわかったような気にすらならない。冷蔵庫だって電子レンジだって、電球が光るのだって、あるいは税の仕組みや社会保障だって、それと意識しなければ一生すべての仕組みを知らないまま生きていくことだってできるし、意識したところであまりにもわからないものが多すぎて結局人生の大半はブラックボックスに囲まれて過ごさざるを得ない。

賢い人たちは次々と新しい技術を生み出していく。権力ある人たちは知らぬ間にさまざまな制度を構築していく。それぞれがそれぞれの方向に尖りすぎていて、誰も隣の分野についてさえわからないままに突き進んでいく。「科学が進歩し、社会が変化していくのだから、わたしたちも変化をし続けなければならない」と様々なメディアが煽り立てる。

でも、誰にも何もわからない。一つの技術を極めたところで、社会のすべてを知ることはできない。変化をしろと求めてくる人たちも、どのように変化をすればいいのかは教えてくれない。1年後に何が起こっているのか、それどころか5分後に何が起こっているのかさえ誰もわからないのだ。

一方で、インターネットはそれを使えるありとあらゆる人々に声を与えた。誰もが声を発し、誰もが声を求めている。発せられた言葉の一部は人々の間で増幅し、さらに多くの人々へ広まっていく。増幅された言葉の主は、声を求める人々の思いに応えるべくさらに多くの声を発する。声がさらなる声を呼び、やがてはその人を中心として人々が集まり、信者と呼ばれるほどの確固たる集団を形成するまでになる…。

求められる声は耳触りの良いもの。何もわからないこの世の中で最も価値ある声こそ、「答え」である。先行きが見えない。溢れた情報が不安を増大させる。でも、わたしの言葉を信じていれば、きっと人生うまくいきます。

「次はこれが流行る」「今これをしなければ損する」「本当に頭のいい人はこれをしている」…使われる言葉こそ複数のパターンがあるが、どれも何かを決めつけているという点で同じだ。そうした決めつけにはもれなく根拠は提示されず、もしかすれば言っている本人さえそんな行為をしていないかもしれないというのに。

この世のどこにも答えなんてない。あったとしても人間如きに認識できる階層にはない。科学理論にさえどこかに人間が決めた前提がある。わからないことは、わからないこと以上ではありえないのだ。

答えはない。だが、人間は信じることができる。

何を信じればいいのか。それは自分自身だ。自分が何を好きで、何に魅力を感じて、どのようになりたいのかをつぶさに考え続ける。それは日毎に変わってしまうかもしれないが、誰かが考えた答えらしきものに飛びつくよりかは、本当のことに近づけるはずだ。自分が見ている世界は、自分にしか見えないのだから。

…ということを(とまとめるには取り止めがなさすぎるが)、テツandトモwikipediaに書いてあった「なんでだろう」ネタのきっかけ、

元々は本人たちも答えも一緒に歌っていた(例:トモ「テツの顎がこんなに長いのなんでだろう?」→テツ「遺伝だろう」など)が、「答えはあえて出さない方が面白い」との考えで今の形となった)。

テツandトモ - Wikipedia

に感心して何とか言語化しようと考えていたのだった。

答えは出さなくていいし、出せるものではない。あるとすれば望む自分の姿に昨日よりどれだけ近づけているかだけだと思う。そして、そんな答えに辿り着こうとしてもがいている人々の姿が何より美しく感じられる。