20240307

海老天が目の前にあった。きつね色というには少し淡い色の先に、これも真っ赤というには幾分淡い色が映える。

いつもだったらその赤色に怯んで、逆側から食べ始める。先の方に見える赤色を眺めながら、ショートケーキみたいだな、なんて悠長なことを思う。そうして弾力のある身を堪能した後に、この赤色は、ケーキのいちごとは意味合いが違うのだと思い出す。不快だと断じるほど不快ではなく、かといって不快ではないと断じるほど快くもない、あのもっさりとした海老の尾っぽの感触を思い出して、ほんの少し躊躇して、結局口に入れる。後悔もせず、感動もせず、たまに口に残る殻の欠片が、海老を食べ尽くしたことをまざまざと感じさせてくれる。

そんなかつての記憶が尾っぽ側に強調されて思い出されたのだろうか。今日は先に赤色を片付けたくなった。そこまで美味しい記憶のなかった海老の尾っぽがなくなれば、あとはプリプリの身だけを楽しむことができる。ケーキのいちごとは違う。甘酸っぱいいちごはケーキを食べた後の身に沁みるが、もさもさの尾っぽはいつ食べたって得も言われぬ感情を持つことしかできない。

何のデメリットもない。迷いなく赤色を口に入れ、美味しい部分しか残っていないはずの身を満足げに皿に置き直した、のだが。

色を失った海老天は、海老天ではなくなっていた。ぼこぼこと膨らみが目立つ、何かわからない円柱状の物体。その姿が目に入ったとき、比喩抜きにそれが何なのかを一瞬忘れた。さっきまでの記憶と、口に残る欠片がなければ、一生思い出せなかったかもしれない。そう思えるほど、尾っぽを無くした海老天は本来とはかけ離れた姿をしていた。

恐る恐る口に入れてみると、間違いなく海老天である。なのに、噛み切った瞬間残りの部分は海老天ではなくなる。それを繰り返し、最後の一口を入れてもそのもやもやは続いていた。目の前になくても、無骨に転がった淡いきつね色の物体の記憶は焼き付いてしまっている。カニカマを食べてカニを思うのではない。ちゃんと海老を食べているのに、海老を信じ切れないのだ。

尾っぽの赤色だけを見て、私は海老を認識していた。

多様性の時代にそぐわない了見の狭さに、私の頬も尾っぽのように赤くなる。

 

ところで、海老の尾は残す人も多い。残したとて咎める人はほとんどいないはずだし、現に見目を気にするであろう会食でも残す人の方が多い。自分にとってあまりにも海老の尾まで食べることが当たり前になってしまって、大多数の人には一切の共感も得られない話となってしまった。尾っぽを食べないなら、海老天を食べ始める方向は一つに定まる。ただただ美味しい身だけを食べれば良い。

貧乏性と几帳面さが災いして尾っぽまで食べないと気が済まなくなってしまった。おまけに、海老の尾っぽを巡って誰にも気づかれない葛藤を抱えるまでになってしまった。

もはや人間だけで解決できる問題じゃない。海老よ、君はどうされたい?

20240221

誕生日。

こと周囲の人に対しては、年齢を重ねるごとに何も意識をしなくなってくる概念である。小さい頃は学校で誰が何月誕生日なのか結構把握されていた気がするし、プライベートだけじゃなくて学校でもちょっとしたイベントがあったような覚えもある。

高校、大学、会社(、無職)と、人生が進んでいくにつれて世界は広がっていくはずなのに、どんどん関係する人は選別されていって、クラスやら部署やら大きなくくりにいるはずの人たちの情報は必要最低限のものしか得られなくなってくる。関係する人たちであっても、年齢を重ねるに連れて必要な情報は変わっていき、その中において誕生日の優先順位はどんどん下がっていく。

まあ、恋人とか家族とか、誕生日を覚えておきたいという関係性を無視し続けられてしまった、悲しい人生だったということなのかもしれないが。

 

なのに自分の誕生日だけはどうしても意識をしてしまう。いつまで経っても、周りの人の誕生日をほとんど一切把握しなくなって久しいというのに。

誕生月になると心がソワソワし出す。日が下旬だから、そのソワソワは長い間解消されずさらに増していく。外面だけは意識していないように振る舞おうとするが、どうもぎこちなく感じる。地に足がついたかつかないか、どきまぎしながら過ごしていればああもう一週間前、前日、当日。ソワソワがピークを迎え、翌日、翌々日と落ち着かない日は続く。何もしなくても過ぎていく時間がありがたい。その近辺さえやり過ごせればいつの間にかまた平穏な心持ちに戻っている。

 

誕生日が特殊なのは、年中行事ではない個人的な祝うべき日の中で唯一、他者からすべてを勝手に与えられたという点にある。何かの記念日というのは、人生の段階を進めていく中で自分の決断や努力なんかが結実した日だ。今後も縁はなさそうな結婚記念日だとか、はたまた何かの賞を獲得したとか、思い出に残る日付には個人的な人生の蓄積(これが物語だ)が附随する。

誕生日はどうだ。その日に至るまでに自分自身で選択してきたことは一つもない。勝手に産み落とされて、いきなりゲームに参加させられただけ。自分にとってなんの思い入れもない日付に、ものすごく重大な意味が付与されてしまう。誕生日は往々にして祝うべき日とされている。「今日誕生日なんだよね」と言われた時の返答は「おめでとう」一択なのだ。

 

そんな返答にもやもやを抱いてしまうせいで、自分からアピールしないようになってしまった。外から私を見れば、一年中すべての日付が同じ意味。なのに、その内側では。

毎年の繰り返し、いつになったら自分にとっての他の人の誕生日と同じような捉え方ができるのだろう。

それか、自分の誕生日も素直にお祝いできるようになるか。

後者の方が幸せなように思える。しかし、なんやかんや、自分の誕生日を自分の意識から全く捨て去ってしまえるように生きていたいと思ってしまう。今の自分があり、未来の自分を今より認めることができるとすれば、それは誕生日より後の自分の経験に基づくものでしかないのだから。

 

なお、誕生日はほとんど1年先なので今思い浮かべているのは本当に無駄なことだし、ダラダラ書き連ねていることとも矛盾している。

SNSで誕生日アピールを複数観測し、もやっとしてしまった、弱い自分がこの文字列を生み出した。

20240105

2023と一度打って、戻しました。増えていく数値の重みは年々薄まる一方ですな。ただそれは年齢を重ねたとか、人生経験だとかではなくて、単に年単位で物事を考えることをやめてしまったことだけが理由なのかもしれないが。

 

たまには自分のことを認めてやろうということで。

社会の平均からすれば意外と、自分に対して厳しく生きてきた側の人なのかな、なんて思えてきた。平均の上というだけで全然まだまだ自分に甘い部分ばかりではあるのだが、それでも、ランダムにサンプリングすればその中で自分に厳しい方である確率は有意に高いだろうと思えるくらいの、そんな位置づけ。ぼーっと酒飲みながら考えているので思考がまとまらないのはご愛嬌。酒飲みながら書いてるやつが自分を律することのできるやつなのかというツッコミも野暮だ。ここはチラシの裏でしかない。

自分で多少なりとも道を切り開くことができるくらいの恵まれ具合。何かあっても食いっぱぐれることはないだろうと思えるくらいの恵まれ具合。烏滸がましい言い方をすれば、それを享受するに値するくらいには、結構自分に厳しく生きてこられたのかもしれないな、なんて感じてしまう。

周りと比較するのは負の業でしかないのだが、自分を認め、なんとか生き延びるために許してほしい。意外と自分が自分に厳しく生きられるタイプなのかもしれない、なんて思えたのは周囲との比較きっかけでしかない。横槍は入れないけど、何か妥協の産物のようなものでやり過ごそうとしているのを見ていると、それは自分にはできないなとなる。少し考えればひらめくかもしれないし、誰かに聞けばうまいやり方を以前に試行錯誤していたかもしれないレベルのことで妥協したくない。自分が楽をするためではなく、綿密に考えた結果それがベストのやり方だと判断したのだと、ちゃんと説明できるようにはなっていたい。そんなポリシーは、意外と多くの人が持っているものではないらしい。

こうして段々と、あまり良くないやり方ではあるが自分を認める部分ができてきたのは最近のことだが、振り返れば生き方自体はあまり変わっていない。

モヤモヤしたまま次に進みたくない。そのままの理解は無理でも、せめて自分の言葉で噛み砕いて自分なりの解釈を持っておきたい。それは日頃の業務だったり、資格試験の勉強だったり、遡れば受験勉強だったりの時にも通じるスタンスだった。

ただ答えを覚えるのではなく、全て自分が分かったと納得できるまで向き合い続ける。そうすれば別に上級資格であろうと、下級資格の時に培った理解のみで対応可能なのだ。1つ下の資格に合格しているのにもう1段階上の資格に受からないのはおかしい。驕り高ぶっているような物言いだけど、ちゃんと勉強していればそんな状態になるはずだ。

もちろん、自分が理解したと判断する基準が甘いものであればそうはならないのだけど。

 

自分を認める、なんて思いながら、そのきっかけはただの愚痴だったと思う。

愚痴るくらいであれば、同じ方向を向けるように導くのがWin-Winの関係なのかもしれないが、でもちょっと、そこにリソースを割く余裕はないのだよ。

そんな余裕が生まれるまで、内心ではちょっとこんな風に驕り高ぶった物言いも交えながら、でもそれで膨らんでくるプライドを自分にとってポジティブな方向に作用させて生き延びていく分には文句はないだろう。

今年買ってよかったものリスト2023

1位 チェキ券

アンタとの時間、かけがえがなさすぎて草

 

1位に全振りしたので他には一切お金使ってません。都会は野草が少ないので住むには不適だと思いました。

20231005

私が私の生き方について、自分の中で納得してそう決めたなら、そのように進めばいいし、違和感があればいつだって修正すればいい。何においても他人と比べることは自分の生き方をブレさせる原因になるので、私は「昨日より今日の自分を嫌いにならない」ように生きている。どうしても比較をしてしまうのであれば、その対象を自分自身に向ければ解決だ。その上、判定条件を「嫌いにならないこと」とより良い方向へ向かうための下限値に設定している。別に毎日毎日自分を更新し続ける必要はない。ただ、悪い方向が続かないようにすれば良いだけのことだ。

もちろん自分自身の言葉に絡めとられるのも、他人と比較してしまうことと同じくらいに自分の生き方を狭めてしまう。だから、上のように言ったけど、実際はもっと緩く、別に嫌いになっていても死ぬ時までのトータルで考えればいいや、なんて思っているし、何ならそんなに自分への気持ちを確認してもいない。

ただし、先ほどの「昨日より今日の自分を嫌いにならない」という指針は、短い言葉で端的に他人と比較しない生き方を示すものとして気に入っている。生き方に悩む人が目の前にいれば、こんな感じで下限値を判定基準にして緩く生きれば良いんじゃない、なんて伝えると思う。それで自分は気楽に生きられている実感があるから。

 

でもそれも、恵まれた側の感覚でしかないのかもしれない。

昨日の自分と比較するだけで、しかも昨日の自分と同じでい続けてもそれを達成してしまう基準で、生き続けていて、それなりの暮らしが送れてしまう能力なり環境なりを用意されているというだけなのかもしれない。日銭を稼がないといけないのなら自分を見返す余裕なんてないし、大きなストレス源が外部にあれば自分との比較なんて悠長なことは言っていられない。最低限昨日の自分のままでも生きていられるのは、高等教育の機会を得られ、一定以上の経験を積ませてもらったからだ。そうでなくて、人並みでなければ生存することができないのであれば、まず他人の生き方を参考にしなければ、最初の一歩すら踏み出し方がわからない。

自分が自分の人生を生きていく中で見出した答えを他人に伝えることが暴力になりうる。何も背景事情を知らないのに、自分がこう生きていて上手く行っているからあなたもこうした方が良いと伝えても、そんなのできない、意味がわからない、なんて不快な気持ちにさせるだけかもしれない。

力になりたい。美しい思いに思えていたけど、自分が実際そう思うとき、そこに含まれる身勝手さに少しづつ気づくことができるようになったと思う。力になりたいとか、助けてあげたいと思うことは尊い。だけど、そこでかける言葉なり態度なりは、たとえ多くの人が正しいと思うことであっても、傷つける可能性を孕んでいる。

だから言葉をかけるのをやめよう、と思うのもまた身勝手だ。私に見せた苦しみは私にだけしか見せられないものかもしれない。それを無視して、言葉が暴力になるからと何もしないのは、ただの自己保身で傲慢な振る舞いだ。

自分自身の人生の過ごし方と同じように、他者との関わり方にも正解はない。相手がどういう方向を向きたいのかを汲み取り、何か自分と共通することがあればあけすけに自分の経験を話してみる。でもそれはアドバイスでもなんでもなく、自分の話をしたいから話している、そんな雰囲気を纏っている。

 

言葉の暴力性をなくせるとしたら、自分が自分に向けて発するしかない。自分が思ったそのままを自分に言うだけなら、他の人を傷つけることはない。

同じように、誰かに何かを伝えたいとしても、それを誰かに向けて発するのではなくて、自分に言い聞かせるために発すれば、むしろそちらの方が目の前の人に影響を与える言葉になるのかもしれない。少なくとも私に”響く”言葉や文章は、その人がその人のためだけに発せられたものだけだ。

 

20230817

人と人との関わりって本当に難しい。たとえそれが擬似的な関係性だったとしても。

 

ピエロになるのは得意で、それだけがほぼ唯一の自分の生き方だと思っていた。笑わせるでも笑われるでも、自分が意図的にずらしたことを言ったり起こしたりすることだけが自分の役割だと思っていた。そうしてもうずっとやり過ごしてきたから、新しい場所に移ったってそれなりにやっていける自信はある。笑いが起こらないよりは起こる方が場は和む。

 

でもそのせいで、相手の真剣な眼差しに正面からぶつかることができなくなってしまった。誠実な言葉に笑いは要らない。むしろその場を壊してしまう。なのに、いつだって笑いを求めてきた自分は、そんな時でさえ笑いをどこかに探してしまう。ぶつけられた言葉の中、僅かに開いた隙間を縫って、斜め上の言葉が口から出てしまう。そうして、相手に怪訝な顔を向けられて…。

 

私は学ぶことができる。自分のやり方を見つめて、反省することができる。

今日もいつもの生き方が現れそうになった時、思考回路を修正して、何とかそれっぽい言葉が言えたのではないか。字面だけでもストレートな言葉が出たのではないか。それがたとえチェンジアップのような球速でも、何とか。

もっと他の言い方があったのではないか。何よりその時の表情はどうだったか。ヘラヘラしていて、やっぱり今までの自分らしさが出てしまっていたのではないか。

振り返って今のこの場で反省したとしても、自我が芽生えてからずっと繰り返してきた自分の生き方はどこかに現れてしまう。その量を減らせたとしても、完全になくすまでは遠い道のりに思う。それしか生きる術がなかったから。

 

ただ、私の気持ちは真剣な気持ちそのものだ。

感情を共有できる素晴らしさを知れた。真剣に応援する尊さを知れた。

人として大事なことをたくさん教えてもらった感謝と、何より今楽しませてもらっていること。

足を引っ張りたくないし、身の丈知らずだけど何かしらの力になりたい。

だから、こちらにぶつけられた思いにはさらに強い思いをぶつけないといけないし、何もなくたって伝えるべき時は伝えなければならない。

言葉を考えることも、それを口に出すことも苦手だけど。

 

今日、自分が少しこれまでの生き方から離れられたのか、それを感じるのは相手だし、愛想に隠されていつまで経っても答えはわからないかも知れない。

でも、少しでも今日が正解なのだったら、また機会は訪れるはずだ。もっと真剣に伝えられるようにしておかなくては。

 

20230815

また過去の記憶で感傷的になってしまった。たった一つのキーワードで、あの頃の状況とか感情とかが芋づる式に引き摺り出されて、何年も前の自分に乗り移られてしまう。それが今も続けている自分の趣味のきっかけときたもんだから、より新鮮に懐かしく当時のことを思い出し続けてしまう。誰も興味のない当時の感覚なんかが頭の中を埋め尽くし、綺麗な時系列でその時の自分が追体験される。何度も思い出し、何度も蘇らせてきた自分がまた再び、しかも全く同じ再現度で現れる。言語化が苦手なはずなのに、そこまで繰り返し体験してきた過去の自分の気持ちや感覚は寸分の狂いもなく表現できる。何を、どこで、どのように享受し、それをどのように受け取り、どの部分に最も魅了されたのか。自分の感覚を言語化することに興味のなかった時代のはずなのに、何回聞かれたって同じ答えを正確に導くことができる。

老いたくない。いつも同じ話ばかりをする人にはなりたくない。過去のどこかに囚われるのではなく、いつだって新しい刺激を求めていたい。

仕事で、自分にとっては目新しいことに取り組んでいる。頭の使い所が異なり、強く疲労を感じるが、知識や経験が増えることに喜びは感じられている。いつかこの業務に慣れれば、また新しいことをしたい気持ちが芽生えているだろうと、今の自分は信じられる。

趣味で、興味の幅は広いと自負している。だからこそ前職とは全く異なる勉強必須な業種でもやっていけている。知らないことを知るのは喜びだし、裏に隠された人々の想いを知ることもまた喜びだ。信念を持って生み出されたものに心を動かされないほど私は枯れていない。そうした想いは、自分から感じようと向き合っていれば日常で何気なく出会うものにも溢れている。駅に行って、さまざまな表示がなぜその文字で書かれているのか、具に見れば全く違っていて、違いには全て理由と想いがある。自分が知らないだけで他にもたくさんそういう事例はあるはずだ。そして、私はそれらを感じたい。

だから、私はまだ老いていない。たとえ過去の記憶に囚われてしまう時間があったとしても。