260606

お土産を渡すのももらうのも苦手なのである。

 

これはもちろん、己の社会性のなさが致す不徳たるものでしかない。ちゃんとした大人ならそんなものに苦手意識など抱くはずもなかろう。ただちょっと荷物が増えたりするだけなのだから。

だがこうした感覚を言葉にしておくことで、自然と世の中で回っている事象を目の前にして違和感を感じた時、その感情への対処法を形成しやすくなる。あくまで自分の心にケリをつけるためであって、もらう場面があればもらうし、渡す場面があれば渡す。それが社会ってものなんだろ?

 

まずは渡す側から。

お土産を買うという意識が芽生える状況は、自分が普段所属しているコミュニティから逸脱した場所に存在している時。とりあえずお土産という言葉から連想されるのは、旅であったり出張であったり、自分(とごくわずかな人たち)だけが遠出をしている場面だろう。いや、出張であれば私は上司、同僚、部下、その他その出張に関わりの深い人たちを中心にお土産は買っていく。出張の金の出どころはそのコミュニティなのであるし、出張の間に今目の前にいない人たちを思い出す理由もあるからだ。お土産という概念に苦手意識を持つのは旅の時。旅は何のためにするのか。今いる場所からわずかな時間でも離れるためだ。特に明確な苦しさや辛さがそのコミュニティになくても、一つの場所にいたら息が詰まる。なんとか暮らしているその環境の中でこれからも生き続けるために、何もかもが自分と関係のない、そんな場所に行かざるを得ない時がある。なのに、なんで、そんな場所で置いてきた場所のことを一秒たりとも思い出さなければならないのだ。一人で、見知らぬ土地で、全てのしがらみから解き放たれているのに、なぜ君たちは頭の隅から顔を出してくるのだ。お土産なんて概念さえなければ、私の旅は徹頭徹尾旅になるはずなのに。

いざ買うとなっても価格帯や選択にかなり迷ってしまうというのも苦手な部分ではある。買ったことは何度もあるのよ。

 

次にもらう側。

これは真に自分側だけの問題で、お土産の定番といえば(特に会社などで大人数に買っていく場合などは)小分けにされたお菓子だろうが、こういう類のものが半分くらいは食べられない。アレルギーではなくただ単に苦手という理由なので無理すれば食えるが最悪吐いてしまう。せっかくのものを無碍にできないので誰かにこっそりあげたりしているが、もらう度にコソコソしないといけない面倒さや罪悪感を感じさせられてしまう。あげる側としては少しムカついてしまう物言いかもしれないがどうしようもない。親切は別の機会に分け合いましょう。

せっかく旅に出たのに、わざわざ私なんざ思い浮かべなくても、というような感情もある。

 

総じて渡すのが苦手なのでもらわなくていいです、自分の分だけスルーしてください、といった感覚。祝われるのが苦手だから人の誕生日も覚えられないです、という別に持っている感覚と近いのかもしれない。

 

なんか自分が嫌な人に思えてきた。今更どうにもできないが。

 

260328

一般という言葉から見れば少し特殊なのかもしれない自分の感性や思考と似た登場人物の出てくる小説に2冊連続で出会えて、良い読書体験が得られた。

『おいしいご飯が食べられますように』

『余命一年、男をかう』

前者は二谷や部分的に押川さんが、後者は終盤までの片倉唯が当てはまる。

描き方も二者二様であって、前者だと出てくる全ての人たちの感性や思考が、否定も肯定もされず淡々と、それでいてつぶさに描写されていて、まさに純文学といった雰囲気だった。色々な人間を細かく立体的に描いているところが、自分にとっては朝井リョウの小説を読んだ時と同じような読書体験があった。

後者は特殊側を否定はせずとも、別の感性や考え方を徐々に受け入れていって、終盤での彼女はより幅の広がった人物となっていた。恋愛小説賞の受賞作品ということであるが、今の時代だからこそ描ける雰囲気が如実に現れていて、生き方に対する選択肢や感性を広げさせてくれる感覚があった。

特に自分に近しい登場人物が出てきた時に感じるところは、あり得たかもしれない生き方や、自分にはできないけど想像はできる生き方を臨場感たっぷりに追体験できることだ。もしかしたら、そこで得られた感覚を自分の人生でもちょっと試してみたりするかもしれないし、現実に反映しなかったとしても自分の引き出しは確実に増える。自分とは真逆だったりする他の登場人物との関わりの描写が、そういった感覚をより豊かなものにしてくれたりもする。

他人に興味がないといった雰囲気が普段の私からは出ているらしいが、自分が人間である以上、人間として過ごしていくための手段に興味はあるし、読書に限らずとも新しい視点に膝を打つこともある。その中で読書のいいところといえば、自分のペースで、描かれていることを追っていけばいいという点だ。自分はほとんど何もしなくて良い。誰かが苦しんで産み出したであろう世界を、ただ後追いすればいいだけだ。こんなことが千円いかない程度で体験できるとは、つくづく読書とはコスパの良い趣味である。

 

一方で、別の趣味として持っているアイドルオタクでは、最近行った大きなワンマンライブにて、視点は変わるけれど人生の追体験で似たような良い鑑賞体験を得られた。

こちらで感じられる人生は、前述の読書体験とは真逆の、自分が絶対に経験することのない生き様としてだ。人対人で、真正面から向き合わないと決してたどり着かないパフォーマンス。言語化できない良し悪しを前に、もがき苦しみながらもその時にたどり着いた一つの形。自分ならば逃げてしまっているであろう対象を前に、真正面からぶつかって、その結果を最高の形で見せてくれる。

自分に置き換えることが一切できない人生を前にして、他では得られないような感銘を受ける。ここでしか得られない栄養とはよく言ったもので、それが自分の生き方の延長線上にすらないところから摂取できるのは、改めて考えると不思議なのかもしれない。だがその栄養は、自分の生き方にちゃんと取り入れられる形もしている。

今の少ない頻度だと、そうした全身全霊をインスタントにつまみ食いしているような罪悪感も若干感じてしまって、大っぴらには言えないけど、ここにオタクを完全にやめられない何かがある気もする。今の頻度で言えば、コスパの良い趣味にも思えてくる。

 

人間をやめられない以上、できる形から人間らしさを感じていきたい。

それをすれば得だからというのではなく、やっぱり興味があるからというポジティブな理由で。

251211

突然の、死ぬまでにやりたいことリスト100選

1.電子の気持ちがわかる

  ※これを細分化すると96個くらいにはなる

2.本場のアスパラガスを食べる

3.本物のししゃもを食べる

4.本場のカツオのたたきを食べる

5.自分が人間だという認識から離れる

 

血反吐を吐くまで努力したい、などもあったが電子の気持ちがわかる頃には何度もそうなっているでしょう。では。

 

251115

※日記の練習

 

先週末あたりからいきなりミニ鬱が顔を覗かせていたためラムネを摂取しようとするも、定期的に飲む必要がないくらいまで寛解した名残の在庫ラムネはどう見ても期限が切れていた。期限切れだと思いも寄らない副作用が、などと怖い文言が目に入ったものの、失明以外はかすり傷ということで飲み込み完了。その勢いのまま水回りの掃除をやり遂げ、名実ともに健常者ということになった。

なお、確かに薬効は薄れているような気がする。脳にベールがかかるような感覚がほとんど感じられなかった。いつまでも安定な化学物質は存在しない、幸せな気持ちと同様に。肝に銘じておいてください。

 

と言いつつ、プラセボなのか案外大丈夫になってきた。これは先週無理やり10km走った後の大丈夫とは異なる強度の大丈夫だ。まだまだ今日は続く。この調子で、趣味で作っているゲームの同時押し判定処理の改良を完遂させちゃおうかな。

 

P.S.

心身ともに健康な人間は、15時くらいにようやく上半身を縦向きにできたことを今日は明るい時間から活動ができてすごいとは思わないらしい。でもおれたちは入眠したとていわて沼宮内駅の新幹線時刻表より高頻度で目を開けることができ、その気になれば朝4時にツイートを敢行することも可能–––

 

251004

自分だけが紡げる言葉はあるのだろうか。

かつて小説を書こうとしてうまくいかず、それでも何個か書き通して自己満足ながらも自分を救える物語を書き切ってしばらくした後。唐突に何かを文字に起こしたくなって、何の目標も持たずにさらさらと指を走らせたことがあった。

自伝のようで、どこか遠い世界のようで。書かなければならない文字数も練らなければならない構成もなく赴くままに進められたその文章は、1万字にも満たないくらいで終わりを告げた。

半分以上が自分の要素で構成されている主人公が自殺をして終わった。

プレッシャーもなく、どこまででも書き続けられるはずなのに、一直線に死に向かっていって、どこにも寄り道をしなかった。

どうせならもっと前向きに、出来の悪い世界だとしてもそれを創る側の責務として生み出した人々にはどうしようもない思いをさせないことが心情だったはずなのに、あっけなく彼なのか彼女なのかは死んでしまった。

途中に何を書いたのかも、書き出しで何をイメージしていたのかも覚えていないくらいなのに、気の赴くままに書いた結果が自殺だったことが大いに印象に残っている。周囲から見て暗い人というイメージは持たれていないだろうし、当時それほど精神状態が悪かった記憶もない。なのに、書き進めていたらそんな結果が現れた。

その美しい一本道以外のことを覚えていないということは、人に読ませられるような力強さも儚さもユーモアもなかったのであろう。誰かがただそこにいて、気づいたらいなくなっていただけのこと。それこそが自分の自然な感覚だったのだ。

 

書いていく中で、あまりにも自然にたどり着いた結末だったから、それ以降まとまった文章を書くことはすっかりなくなってしまった。無理に何かを取り繕うとしたって、出力されるものは脳みそのほんの表層で変換しただけの偽りの姿。何に対しても心の奥の奥には諦めの感情が芽生えてしまう。文章を積み重ねるたび苦しかったのは、自分にはないものを自分の中から取り出そうとしていたからかもしれない。

凝り固まっていたものがほぐされ、ようやく向いていることを探す旅に出ることができた。

 

ふとしたきっかけで自分の外側も内側も味わい尽くしてしまった。

外側のピエロ、内側の厭世観

一度にどちらか一方でしか振る舞えない自分が紡げる言葉にそれほど価値はないかもしれないけれども、残る記憶にいるどちらかを思いながら飲む酒はそれなりにおいしい。

嫌いではない。

 

250823

自分の人生はまわり道ばかりで、齢30にしてようやく向いている上に楽しめることに出会えた。電子回路の設計なのだが、これまでにライフワークになりうるものだと思って接した物事たちとは感覚が違って、それ単体に対して苦だと思うことが今のところ何もない。思うように動かないというよくあるくせに最も大きなストレス源となる事象にぶち当たっても、迷惑をかけている人がいるという点を除けば、それを解消するための振る舞い一つ一つに楽しさを感じられるくらいだ。こうなればこう動く、その感覚をことあるごとに蓄積できて、そんな蓄積が次のトラブルに活かされる。自分が見ている世界が電子が見ているそれに近づいていく。その時感じる気持ちは、あえて強い言葉を使えば至上の喜びといったところだ。その感覚は年単位で続いているのだから、これから先もよっぽど大丈夫なのだろうと思わされる。

オチをつけるとすれば、そこに至るまでの道が山手線くらい丸いことだ。

時は十数年前に遡る。学科名で言えばまさに電気電子工学科というそのものなところにオープンキャンパスで見学に行っており、覚えきれないくらいの色々な話を聞いた(往々にして教員や院生は自身の専門をキラキラした目で話す)上で合わないなと一蹴してしまっていた。そこで聞いた覚えが微かにある事柄に、つい最近苦しめられて楽しませてもらったというのに!

そもそも当時のモチベが、名前がかっこいいとかその程度だけで、一切中身を知らずに特攻しただけというのもあるのだが。

それにしてもあの時わずかにでも引っ掛かりがあれば。

その後絶対に金にならなさそうな分野に興味を持って、あまつさえ金にならないことこそが価値なのだと狂った思想に染まり切らなければ...。

バカデカ企業でバカデカ責務でバカデカ賞与で平均よりだいぶ上のウハウハ暮らしを…。

 

と思わない気持ちもなくはないが、結局当時に引っ掛かりがあったとして、上記のような道筋を歩んで、何か合わないと思って辞めていた世界線もくっきりと見える。

ifを比較してどうであろうと、結局は似たような場所に落ち着いているような気がする。これだ、と思ってしまうと他のことが全く比較対象にならなくなってしまうし、頭の中だけでの想像と実際に感じることとは異なる。今面白いと思えているのは、人間より電子と関わる時間を長く取れるからだろうし、そのウェイトが人間によって仕舞えば確実に私は嫌になる。就職も恋愛も無理学部に大きな魅力を感じてしまうその根本は、いつまで経っても変わらない。事実、理学部は凄まじく心地の良い居場所だった。他人なんて目じゃないくらいに興味を持てることが各人にあったし、それをお互い交歓し合うのは何物にも替え難い時間だった。どんなに泥酔していても語り尽くせる対象がある人ほど魅力的なものはない。

そうやって俯瞰して状況を見れるようになったのも、向いてないこと、嫌なことをちゃんと体感したからだ。

まわり道することでしか人生の道筋を定められない、不器用な生き方も、今生きているという事実がある限りは悪くないのではないかな。

 

...書きながら酒を飲み過ぎてしまったため本題に突入せぬまま締めざるを得なくなってしまった。