ウユニ塩湖

ゆるふわほのぼのがわしのツイーティングスタイルなのでこちらに愚痴っぽいものをば

・仕組みで防げるミスが生じてしまったときに、仕組みを作る側でなくミスをしてしまった側から悪人探しをしているの、再発も防げないし弱い立場の人はさらに弱くなるしで、胸くそ悪い。そもそも人為的なミスはいつか絶対に起こるものなので、ミスをした人を糾弾しても何も生み出さないとこれまでの事例から学ばなかったのか。

・飼い犬の写真を上げているアカウントが無断転載禁止と書いておったが、お前は犬の肖像権を無断で蹂躙しとるやないか。義務を果たさずに権利だけ主張するな、自分の態度に一貫性と責任を持て。犬本人から掲載許可を得ているのならごめんなさい。

人間のこと知的生命体だと思ってる人に知性はないらしいです。

答え

ほんとうは眠りたいのに身体が言うことを聞いてくれないのでここで時間をつぶす。

現代社会を大きく特徴づける巨悪ことインターネット。わたしが小学生の頃はまだアンダーグラウンド感があって、フラッシュ動画やテキストサイトで純粋な熱意やブラックジョークがひっそりと交わされるばかりだった。そこから20年以上経ち、生活の隅々まで進出した電脳世界は、もはや現実との境目も曖昧で、空気のような当たり前に思えるほど存在を大きくしていった。

そんな何億回も言われ続けてきたような言葉も、毎日のように繰り返して唱えていなければ自分の身も心も汚染されてしまう。大きく膨れた危機感がネットの海に向かう指先に逆向きの力を加え、けれども虚しくまた今日も目の前にSNSやら何やらの画面が広がるばかりであった。

とは言え、強大なインターネットにただ汚染され続ける毎日というわけでもない。

何を表示するかをわたしはまだ自分で決めることができる。検索キーワードに少し工夫を加えたり、SNSでは自分の人生に必要のないアカウントを容赦なくブロックすることができる。SEO対策といたちごっこになったり、際限なく気に入らないアカウントは現れるけれど、それでもそんなちっぽけな抵抗が明日の自我を残してくれるような気がして、今日も明日もまた同じ作業に勤しんでしまう。性格の悪い発言だが、「このアカウントをブロックする」欄をタップするたびに生きている実感に近いものを感じるのだ。

ここで終われば本当にチラシの裏の自分語りだが、小学生からインターネットに触れてきたネイティブ世代として、あるいはネットに汚染された社会のさまざまな側面を見てきて気づけた、「信じなくて良い人の簡単な判定基準」をここに記しておこうと思う。

それはただ、「答えを提示する人」には耳を貸さなくて良いというだけだ。

身の回りにはあまりにもブラックボックスが多すぎる。常日頃触っているスマートフォンがどことどのように通信しているのか、機械自体はどうして動いているのか、そもそもどんな経緯を経てそんな物体が生まれたのか、解説記事はインターネットにだってごまんと転がっているのに、あまりにも幅が広すぎてわかったような気にすらならない。冷蔵庫だって電子レンジだって、電球が光るのだって、あるいは税の仕組みや社会保障だって、それと意識しなければ一生すべての仕組みを知らないまま生きていくことだってできるし、意識したところであまりにもわからないものが多すぎて結局人生の大半はブラックボックスに囲まれて過ごさざるを得ない。

賢い人たちは次々と新しい技術を生み出していく。権力ある人たちは知らぬ間にさまざまな制度を構築していく。それぞれがそれぞれの方向に尖りすぎていて、誰も隣の分野についてさえわからないままに突き進んでいく。「科学が進歩し、社会が変化していくのだから、わたしたちも変化をし続けなければならない」と様々なメディアが煽り立てる。

でも、誰にも何もわからない。一つの技術を極めたところで、社会のすべてを知ることはできない。変化をしろと求めてくる人たちも、どのように変化をすればいいのかは教えてくれない。1年後に何が起こっているのか、それどころか5分後に何が起こっているのかさえ誰もわからないのだ。

一方で、インターネットはそれを使えるありとあらゆる人々に声を与えた。誰もが声を発し、誰もが声を求めている。発せられた言葉の一部は人々の間で増幅し、さらに多くの人々へ広まっていく。増幅された言葉の主は、声を求める人々の思いに応えるべくさらに多くの声を発する。声がさらなる声を呼び、やがてはその人を中心として人々が集まり、信者と呼ばれるほどの確固たる集団を形成するまでになる…。

求められる声は耳触りの良いもの。何もわからないこの世の中で最も価値ある声こそ、「答え」である。先行きが見えない。溢れた情報が不安を増大させる。でも、わたしの言葉を信じていれば、きっと人生うまくいきます。

「次はこれが流行る」「今これをしなければ損する」「本当に頭のいい人はこれをしている」…使われる言葉こそ複数のパターンがあるが、どれも何かを決めつけているという点で同じだ。そうした決めつけにはもれなく根拠は提示されず、もしかすれば言っている本人さえそんな行為をしていないかもしれないというのに。

この世のどこにも答えなんてない。あったとしても人間如きに認識できる階層にはない。科学理論にさえどこかに人間が決めた前提がある。わからないことは、わからないこと以上ではありえないのだ。

答えはない。だが、人間は信じることができる。

何を信じればいいのか。それは自分自身だ。自分が何を好きで、何に魅力を感じて、どのようになりたいのかをつぶさに考え続ける。それは日毎に変わってしまうかもしれないが、誰かが考えた答えらしきものに飛びつくよりかは、本当のことに近づけるはずだ。自分が見ている世界は、自分にしか見えないのだから。

…ということを(とまとめるには取り止めがなさすぎるが)、テツandトモwikipediaに書いてあった「なんでだろう」ネタのきっかけ、

元々は本人たちも答えも一緒に歌っていた(例:トモ「テツの顎がこんなに長いのなんでだろう?」→テツ「遺伝だろう」など)が、「答えはあえて出さない方が面白い」との考えで今の形となった)。

テツandトモ - Wikipedia

に感心して何とか言語化しようと考えていたのだった。

答えは出さなくていいし、出せるものではない。あるとすれば望む自分の姿に昨日よりどれだけ近づけているかだけだと思う。そして、そんな答えに辿り着こうとしてもがいている人々の姿が何より美しく感じられる。

キンキョーホーコク

応援しているアイドルグループの所属事務所がミュージカルに挑戦されるとのことで見に行ってきました。鑑賞したのは22日夜(初日)、および24日昼(最終日)の2回です。

舞台芸術にほとんど触れてこなかったわたしでも想像以上に楽しめました。演劇の面白さにようやく気づけたので、これからアンテナを広げて他の演劇も見てみたいなと思っています。本当にありがとうございました。

 

以下、感想

鑑賞前の心持ち
・これまでの人生を通して舞台芸術の鑑賞経験は皆無で、映画やドラマについても年に見るのは10本程度であまり多くはない。
・演劇の見方を知らないことと、これまで印象的だった作品にミュージカルがなかったこともあって、楽しめるかどうか少し不安を感じていた。
・その中で鑑賞を決めた最大の要因は、配信を通して最も好きなメンバーの経験や懸ける想いを聞いたことだった。

鑑賞後の感想

ストーリーについて
・個人的に小説なども含め物語に触れる前には、先入観を持たないようほとんどあらすじを読まないようにしているのだが、今回の演目は起承転結のしっかりしたストーリーで、演劇の鑑賞経験に乏しいわたしでもそのシーンで何が行われているのかを理解しながら楽しむことができた。
・真壁先生を筆頭に登場人物それぞれが素直にまっすぐ生きていることが伝わってきて、鑑賞後は忘れていた青春を取り戻したようなとてもさわやかな気持ちになれた。
・短い時間で登場人物も多かったが、演者の方々の力も相まってすべての人物に対してその人となりを自分なりに理解することができた。
・ただ欲を言えば、もっと長い公演時間の中で、削られてしまったであろうシーンも含めてさらに深く作品世界を味わいたいとも感じた。シーン切替の前後で表情が変わっていたり、関係性が進展していた間に、彼女たちは何を思い、どのように行動していたのだろうか。

演劇での表現について
舞台芸術に人生でほとんど初めて触れたが、その表現の面白さや魅力を幾許か感じられたと思う。
・そもそもこれまで舞台芸術を鑑賞してこなかったのは、先入観によって没入感への不安を抱いていたからだった。映像作品であれば、その画面に映るものはすべて作品を作り上げた人たちの意図が反映されており、鑑賞する際には画面をそのまま見ていればよい。一方、演劇では空間が舞台の上だけに限られており、背景や小道具大道具にも物理的な制約が大きいという印象を持ってしまっており、芸術鑑賞にただでさえ不慣れなわたしがしっかりと物語世界に没入できるのか不安があった。そんな思い込みがあって、芸術に触れようとする際の選択肢として舞台芸術の優先順位は低かった。
・そんなこともあり初日の公演前はちゃんと楽しめるのだろうかと少し緊張しながら舞台を眺めていたが、一旦物語が始まれば、人の動きや息遣い、場面を効果的に演出してくれる美しい照明によって想像以上にすんなりと物語世界を感じることができた。舞台の上にちゃんと学校があって街があった。
・鑑賞中は特に、生の人間が同じ空間で発する言葉の力強さに引き込まれた。激しい感情が乗った言葉は強く、揺れ動く心から放たれた言葉は繊細で、それが明確に伝わるのは言葉たちがまさに目の前で放たれているからこそなのだろう。
・また、立ち姿や歩き方、微妙な指や脚の動きなど、映像作品を見ているときにわたしがあまり意識してこなかった部分にも物語の世界を感じ取れた。

演劇という表現の面白さや特殊性
・舞台は一期一会だというのがまさに特殊であり面白いところであると感じた。2回同じ演目を鑑賞したが、出された言葉自体は同じであったとしても、発するタイミング、言葉の間に少しずつ違いがあり、受ける印象も(物語の雰囲気が変わらない程度に)異なるものだった。たとえ長い公演期間があったとしても、その時演じられた世界はその瞬間にしか存在しない。これは映画やドラマなどの映像では経験しにくいことなのではないか(同じ映像を見て印象が異なるとすれば、それは自分の経験や感覚が変化したからだと思っている)。
・以上は演者の方々に目を向けた内容だが、一方で鑑賞者側の態度にも特殊性があるように感じた。舞台は映像のように隅々まで構築されたものではなく、より幅広い範囲で視点を動かすことができる。物語を追う中で特に好きな登場人物を見つけたとして、別の人物にスポットが当てられたシーンを迎えたとき。おそらく映像では切り取られてしまうであろう場所にいるその人が、どのように立って、どんな表情でそのシーンを見つめているのだろう。そう思いながら、スポットライトに照らされた空間から少し離れた場所を眺める。他の人物の言葉を聴き、それぞれの関係性が進展していく間に、わたしの視界はその人だけを捉えている。そんな少し不思議な体験が面白く、心地よかった。そして、視線を舞台上で自由に動かせるからこそ、さまよう眼球を釘付けにしてくれるほどの演技が目の前に現れた時の感動は非常に大きく、それは舞台だからこそ味わえる魅力だと感じた。


******************************
たわごと
ほんまアイドルも演技も経験してない奴の戯言やけどなんか理想というかありたい姿を目指して表現していくってとことか一つ一つの舞台がその時の最高を出すかけがえのない瞬間であるってとことかが両者に共通点を勝手に感じててでもあんまファン層被ってない感じやしやっぱり違う領域だろうしその離れたところから自分のことを眺めたらこれまでもやもやしていた部分がはっきり見えたみたいなのはわたしでも感じたことがあるくらいいろんな分野に普遍的なことやと思うしそんな経験を積んだ後のステージってどうなっていくのだろうって楽しみで一方のわたし自身も演劇を通して新しい視点を得られたはずだからこっちも楽しみ方の幅を広げていくぞって感じてこれからもよろしくどうぞ(一息)

Butter-fly(便意ver.)

ゴキゲンな腸になって うごめく腹に乗って

今すぐ キミに会いに行こう

余計な飯なんて 食べない方がマシさ

これ以上 苦しむ時間はない

 

何が WOW WOW〜 この腹に効くのだろう

だけど WOW WOW〜 5分後の痛みもわからない

 

無限大な夢のあとの 何もない胃の中じゃ

そうさ厳しい 痛みも癒えそうになるけど

Stayしがちなイメージだらけの 頼りないお腹でも

いつか出せるさ Oh My Love