20240221

誕生日。

こと周囲の人に対しては、年齢を重ねるごとに何も意識をしなくなってくる概念である。小さい頃は学校で誰が何月誕生日なのか結構把握されていた気がするし、プライベートだけじゃなくて学校でもちょっとしたイベントがあったような覚えもある。

高校、大学、会社(、無職)と、人生が進んでいくにつれて世界は広がっていくはずなのに、どんどん関係する人は選別されていって、クラスやら部署やら大きなくくりにいるはずの人たちの情報は必要最低限のものしか得られなくなってくる。関係する人たちであっても、年齢を重ねるに連れて必要な情報は変わっていき、その中において誕生日の優先順位はどんどん下がっていく。

まあ、恋人とか家族とか、誕生日を覚えておきたいという関係性を無視し続けられてしまった、悲しい人生だったということなのかもしれないが。

 

なのに自分の誕生日だけはどうしても意識をしてしまう。いつまで経っても、周りの人の誕生日をほとんど一切把握しなくなって久しいというのに。

誕生月になると心がソワソワし出す。日が下旬だから、そのソワソワは長い間解消されずさらに増していく。外面だけは意識していないように振る舞おうとするが、どうもぎこちなく感じる。地に足がついたかつかないか、どきまぎしながら過ごしていればああもう一週間前、前日、当日。ソワソワがピークを迎え、翌日、翌々日と落ち着かない日は続く。何もしなくても過ぎていく時間がありがたい。その近辺さえやり過ごせればいつの間にかまた平穏な心持ちに戻っている。

 

誕生日が特殊なのは、年中行事ではない個人的な祝うべき日の中で唯一、他者からすべてを勝手に与えられたという点にある。何かの記念日というのは、人生の段階を進めていく中で自分の決断や努力なんかが結実した日だ。今後も縁はなさそうな結婚記念日だとか、はたまた何かの賞を獲得したとか、思い出に残る日付には個人的な人生の蓄積(これが物語だ)が附随する。

誕生日はどうだ。その日に至るまでに自分自身で選択してきたことは一つもない。勝手に産み落とされて、いきなりゲームに参加させられただけ。自分にとってなんの思い入れもない日付に、ものすごく重大な意味が付与されてしまう。誕生日は往々にして祝うべき日とされている。「今日誕生日なんだよね」と言われた時の返答は「おめでとう」一択なのだ。

 

そんな返答にもやもやを抱いてしまうせいで、自分からアピールしないようになってしまった。外から私を見れば、一年中すべての日付が同じ意味。なのに、その内側では。

毎年の繰り返し、いつになったら自分にとっての他の人の誕生日と同じような捉え方ができるのだろう。

それか、自分の誕生日も素直にお祝いできるようになるか。

後者の方が幸せなように思える。しかし、なんやかんや、自分の誕生日を自分の意識から全く捨て去ってしまえるように生きていたいと思ってしまう。今の自分があり、未来の自分を今より認めることができるとすれば、それは誕生日より後の自分の経験に基づくものでしかないのだから。

 

なお、誕生日はほとんど1年先なので今思い浮かべているのは本当に無駄なことだし、ダラダラ書き連ねていることとも矛盾している。

SNSで誕生日アピールを複数観測し、もやっとしてしまった、弱い自分がこの文字列を生み出した。