20230811

日頃感じたことをちゃんと言語化できるようになりたい。

今日は終日二日酔いだったため感じたことは身体的な辛さばかりでした。

歳やね、歳なのか? あのペースだったらどんだけ若くても(お酒は20歳になってから)とんでもないことになっている自信がある。勢いを抑えることも必要だって、もう何度も経験してきたことでしょ。

迷惑かけなかったかだけ気がかりだが、破滅すること自体に抵抗はない。それだってもちろん他の人に大きな不快感を感じさせないことが前提ではあるが、自分の人生だけに着目すれば特段それがどうなろうが知ったこっちゃない。ただ、何の気なしに過ごしていたって生きてしまうのであれば、少なくとも昨日より今日の自分がより何かを知っていたり、楽しむための視野を広げていたりしていたい。本当に気を抜いてしまうと、すぐに好きなものとか楽しみ方とかが固定化されてしまう。分かり切ったことだけに浸かって、それだけで満足してしまう。

と思ったり書いたりしているのも何度目だという話で、老いたくないとは思っていてもその対処方法は見当すらつかないというのが、最近の悩み(というほどでもないが)かもしれない。

 

20230728

ネット上の性格診断ではいつも、「好奇心が強い」という欄に「その通りです」と答えていた。表現はまちまちだが、正の方向に最も強い回答を絶対に選んでいた。過去の自分は知らないが、少なくとも自我を意識できるようになってからは「その通り」の人間なのだと強く思い続けていた。

証拠だってある。

大学では文系理系問わず幅広い講義に興味を持って臨んでいた。色々な人たちと色々な話をした。振り返ればその場限りだった人間関係も、いくつも構築してきた。誘われればどうしようもないとき以外は参加した。

音楽を聴き漁った。美術展にも足を運んだ。何に心を惹かれ、何に心を惹かれなかったのかを振り返るたび、自分がより自分らしくなっていく気がした。

修士まで出た分野とは全く異なる業種に行った。学問という括り以外の部分でも、人と人との関わりとか、社会の仕組みとか、感じられるものはあまねく自分の感性に落とし込んできた。決算書が読めるようになった。

社会人になってから自発的な学びの時間がなくなったと感じた。だから本を読み漁った。分野は問わず、とにかく内容が面白そうであれば貪った。動画サイトも自分の感性を涵養させる一つのツールだった。少しでも興味があれば一度は確かめてみた。

仕事をやめ、また迷っている中で、結局は高校時代に全く興味の持てなかった分野に携わっている自分に気づく。おまけに今の自分はそれを面白いと思いながら取り組んでいる。当時は気づかなかった、本当によくできた仕組みやそれを考えたり利用したりできる人たちの賢さ。知れば知るほど、立ち向かえば立ち向かうほど、何か人間社会にまでポジティブな感情を抱くほどである。

 

少なくともここ15年くらいはそうやって過ごしてきた。だから、性格診断では迷いなく回答してきた。

だが今週はとても疲れてしまった。気持ち的には一日中寝ていたいくらいに。

 

なぜかと言えば、新しいことに向き合ったから。頭の使い方を全く知らない分野に挑むことになったから。

口ではそういうことも幅広くしたいなんて言っていた。だけどいざそうなってみれば、今の段階では疲れしか振り返ることのできる感情がない。土日を挟んでやり切れるだろうか、そんな不安も抱いてしまう。

新しいことって、こんなに負担だったっけ。

老化なのか何なのか。それを早めに見定めておかないと、何も新しいことを吸収できない人間になりそうである。

20230626

人生の選択に後悔しないためには、後悔しないように生きればいいだけのこと。

とはただ単なる強者の発想なのだろうか。

 

私にはそれだけで食べていける目覚ましい能力はなく、対人関係や運動など苦手なことの方が多い方である。とは言え、客観的に見て平均より大きく秀でた能力もあり、その部分と、多少はエミュレートできるようになった社会性を駆使してなんとか食うに困らないくらいには生きている。そんな今の状況を振り返って特に後悔する場面はない。

少なくとも、自分にとっては。

そんな注釈がつくのは、人生もったいないなとそれなりに他人に言われることがあったから。30歳に達した今ではもうそんな機会も消滅しかかっているが、割と場面も関係性もバラバラながらそのように言われることが結構あった。それくらいの人ならもっとええとこ行けたんちゃうん。○○とか考えへんかったん。もっとガツガツすればええのに。

言わんとしていることはわかるし、同級生を見ればそれなりに思った人だって自分よりうんと給与が高かったり、でかいことをしているように見えて、羨ましく感じてしまう時は正直ある。どちらかを選べるとしたら、迷いなく名の知れた道を進むだろうとも思う。

でも、自分じゃない出来事にあまり関心が持てないというのもまた素直な気持ちだ。

元々自分が大嫌いだった私が、死にきれずにグダグダ生きている間に、一人になって、ちょっと人生の夏休みを挟んだりして、視野が晴れてきて、少しずつ自分を許せるようになっている。好きも嫌いも関心があるから。その気持ちが強いほど他の感情が入る余地はなくなる。だから昔からずっと自分だけに興味を持って生きてきたことになるし、その気持ちに慣れてしまったから、昔より人への興味が入り込む余地はあるはずなのに、取り立てて興味の対象が増えることはない。昨日の自分より今日の自分を嫌いにならない。それさえできていれば丸儲けだ。

 

人と人とを比較するのは負の業の代表的な一つと小平先生も言っていたが、私が存外気楽に生きられていることを思えば本当にそうなのだろうと思う。他人は他人でしかないが、自分のことは自分の意志で方向づけられる。自分の行動が自分に起こした変化を直接感じることができる。過去の自分と現在の自分との比較、そして未来の自分への眼差し。自分のことをよりよく感じられるのであれば、きっとそれが正しい道なのだろうと思う。

 

…そんなのただの言い訳だ、と思うこともあるが。

小言

生物学の哲学に関する本をキレながら読み、修士(生物学)程度の知識で分野としての意味のなさをあげつらおうという企画。

 

題材

「進化論はなぜ哲学の問題になるのか 生物学の哲学の現在」

 

第1章 自然選択の単位の問題

読書前の感想

自然選択がどの範囲で作用するかは生物学の諸分野の研究結果からのみその時点での結論が出るもので、実際の生き物を見ないままにうだうだ考えていても何も有意義な議論は出ないのでは(これは私の狭い認識の中で、すべての科学哲学的な議論に思うことである)。

読後

・「selection for X」やら「selection of X」やら、トークンやらタイプやら、好き勝手言葉を(あいまいに)定義しても議論にはなりませんよ(それら言葉の違いは我々の認識を転換させる程の影響を及ぼさないので)

・何箇所か「集団として捉えていたものはそのまま個体レベルで議論することも可能なのだ」と書いてあったが、この言葉が出た後に自然選択の作用範囲を続けて議論できる感覚がわからない。そのまま議論をスライドすることができるのは個体→集団でも同じであり、その研究として見たい範囲で議論をすればいいだけで、実際にどの範囲で作用しているかは議論する必要のないことなのでは。

・私は、わずかに異なる個体間の差異が子孫の数に多寡を生じさせ、集団の中の遺伝子頻度などとして表出したものが自然選択であり、遺伝子はそれ単体で生存するものではなく、個体間の差異をより詳細に分析するために登場させるものだと考えている。

・科学はあくまで自然のモデルを構築するものだと考えている点で哲学的にナントカ主義の一つに分類されるのであろうが、より深い自然の理解という目標に、主義間での違いはおそらくない。それぞれの考えから杓子定規に分類をして何になるのだろうか。その時代でのナントカ主義者の適応度を比較したいというのなら好きにやって貰えばいいですが…

 

第2章 生物学的階層における因果決定性と進化

読書前の感想

さっきの章と何が違うの?

読後

・やはり、問題意識がわからない。どの階層に着目するかはその研究が何を目指しているのかを示すだけだし、階層間のつながりが上向きだったり下向きだったりは見ている現象によって異なるだけだろう。

・種選択ってそんな対立候補に挙げられるほど生き残っていましたっけ。

・2010年の本というのを差し引いても引用が古く感じた。複雑な生き物たちからは日々新しい現象が発見され、それに対して既存の考え方もブラッシュアップされていく。それまでの枠組みで生き物を見ている視点をいくら俯瞰したところで、それ以降のことにヒントは与えられないのでは。自然は厳然としてそこにあるのに、不十分な人間の見方や考え方をクラス分けして戦わせて何が生まれるのだろう。

 

第3章 生物学における目的と機能

読書前の感想

特に進化において、不用意に「目的」という言葉を持ち込むと炎上しそうですが…

読後

・「機械論的な枠組みと整合的な形で、目的論的言明に意義を認めることができるだろうか」を問うべき問題だと認識しているのは哲学者だけなのではないか。我々の印象とは異なるやり方で現象が説明されているとしても、それは理論が新しい視点を我々に与えてくれる有意義さを強調するのみだと感じる。

・機能や目的を問わざるを得ない生物学の特殊性を、進化という通時的現象が起源への眼差しを強制させる点に求めていたのは改めて言われれば納得感があった。自然科学の一分野として機械論的な枠組みに終始したいが、そうはできないもどかしさみたいなのはなんとなく感じていたので、そこは新しい考え方へのヒントとなりうるかもしれない。

・様々な思考法単体を見てそのメリットとデメリットを論じても堂々巡りにしかならないのでは。重要なのは生物進化を理解するという大目標を見失わず、様々な思考法のバランスを取る(バランスは個人の中でも分野内の人々の間でもよい)ことではないか。全く異なる分野の人から何かを言われなくても、ある思考法に固執することの欠点は感じられると思う。

 

第4章 進化論における確率概念

読書前の感想

生き物も数学も知らなそうなのに何が言えるのだろう

読後

・別に哲学者以外は世界が決定論的かそうでないかにそれほど興味はないのでは。どちらの解釈を取ろうと、科学者が世界の理解として提示できるモデルにほとんど差異はないと思うが。

・私の理解では、遺伝子に偶然的な変異が生じ、それにより稀に表現型に差異が生じ、それがその環境下での適応度の差を生み、その繰り返しが積もり積もって進化が生じると考えている。きっかけは偶然的な遺伝的浮動で、その方向性を定めるのが自然選択だと認識しているが、それらを並列に扱うことは進化学の理解として主流なのか、疑問を抱いてしまう。あくまで化学的な分子である各々の遺伝子に意思を持つ機構があると考えるより、まずは確率的な浮動が変異を駆動していると考える方が合理的ではないだろうか。

・問うべきは「進化論が我々の認識的制約を示しているか」ではなく、「なぜ異なる塩基配列が同じアミノ酸を転写する仕組みが維持されているのか」ではないですかね。それは生物学や化学や物理学から理論が生み出されるものだと思いますが。

・認識的な制約のある中で構築された理論でも、それが何も表現していないことにはならない、って、科学ってそういうものじゃないんですか。わりかし答えが出ている(し、それは当たり前の結論でしかない)ことを読まされて我々はどうすればいいのでしょうか。自然科学で博士号を目指すとき、これまでの科学が築き上げてきた認識のほんの爪先程度でも広げることができれば良いなんて例えられることがありますが、私が全知全能であることを前提とした理論は宗教と区別がつかないと思いますよ。

 

第5章 理論間還元と機能主義

読書前の感想

また難しい言葉を…

読後

・自然種なんてそもそも存在しないし考える必要ないと思います。人間が観察や観測したようにしか見えないし解釈できないので。

・あなたたちがあなたたちの思考の枠組みに閉じこもって今あるものをこねくり回している間に科学は勝手に統合を目指したり発展したりしていますよ。

 

第6章 種問題

読書前の感想

確かに種の定義が曖昧なのは理論構築に悪影響を及ぼす気がします

読後

・種と系統を混同してなくない? あと系統樹の枝を別個の集団として考えるのに違和感がある。枝の末端と同時的に存在していないはずですが。

・種の定義はすべての分類群を包括しようとすると定義不可能に思えてしまうが、それでも研究の中でそれぞれの種は区別できているように思える。包括できない定義を妥協点と呼ぶのなら、それは哲学者に横から言われなくても実際に自然を観察し続けている生物学者だけで納得のいく概念は構築できる。

 

第7章 系譜学的思考の(以下略)

読書前の感想

この人の本読んだことあるな

読後

・概念の構築方法が認知や心理を考えないと解決できない問題だと言われればすべての自然科学はそうだろう。その当たり前を指摘して、一方で具体的な解決策を提示しないことはどのようなモチベーションで可能な行為なのだろうか。

・分類をしなければ系統を考えられずその逆も然りで、表裏一体のものではなかろうか。思考法や歴史が違うかもしれないが、それは研究者それぞれがそれぞれの思考法で研究を進めていることと変わりなく、指摘することに意味はないように思える。

 

第8章 人間行動の進化的研究

読書前の感想

人間興味なし

読後

・あっ、進化心理学だ!

・仮説はその証拠を丹念な研究から検証していくもので、仮説を前提として論を組み立てるのは何も生み出さないと思うのですが。

・適応の結果だとは思えない形質も現にさまざまな生物群で見られますし、なんだかすごく視野の狭いお話をなさっている気がしてしまいます。

 

第9章 進化倫理学の課題と方法

読書前の感想

分野の名前が…

読後

・本性がはっきりしないまま研究を進めないといけないのが深刻な問題だとされているが、深刻どころか本性がはっきりしないままなら何もできないのでは。加えて、感情については本性がはっきりしていると書かれているが、私にはそうは思えないので明示してほしい。本性という言葉の定義も曖昧だ。

・心理も倫理も進化によって生み出されたものではないでしょうか。統一理論の提示を目指す章もあったはずですが、なぜここにきてそれほど区別をして論じなければならないのでしょうか。

・人間の意志とは無関係に変化していく自然に対して規範を論じることはそれこそ人間中心主義で狭量な印象を受ける。規範って統治者や社会の構成員が勝手に定める人工物ではないのですか(というとナントカ主義とかに分類されてしまうんでしょうね)。

・どこかの哲学者が生物学に大役を担わせてしまっているけど双方で語り合わないといけない問題ばかりであるらしい。勝手にしてください。

 

全体を通して

・哲学という内輪の中で全てが完結しているような印象を受けた。誰かが問題提起をして、別の誰かがその問題に対する別の問題提起をし、その繰り返しの無限ループ。提起された全てに対して答えが出ていない印象を受ける。引用文献も生物学ではお目にかかれないような古いものばかりだし。

・答えが出ない要因として個人的に感じるのは問題提起の解像度が低いという点だった。言葉を明確に定義せぬまま議論したり、分野間の差異を無視して同一視してみたりあるいは勝手に分類してみたり。

・突飛な概念を思いつくことは誰でもできます。操作実験など主観を排除できると考えられている方法で検証しましょう。検証できないものは空想以上のものになり得ないので、問う意味がありません。

 

哲学分の税金10年分でサイゼ1回行けますか?

 

20230516

余韻を感じれば感じるほど後悔が膨らむ。でも、わたしが後悔を感じるのは、後悔を感じるような振る舞いをしていたから。正しさの判断はいつだって正しいわけじゃなくて、間違った判断がここ1週間の感情の原因となってしまう。

自分が選んだ道は、自分の力で正しい道へと整えなければならない。自分の選択を正しくも間違いにもするのは自分が要因でしかない。だから、「もったいない」なんて思われそうな生き方だって後悔せずにいられた。回り道や立ち止まることだって、今、昔より少しだけ好きでいられる自分を作り上げるのに必要だったと確信できるから。

でもそれはわたしが選び、わたしだけが選択の責任を負うときだけのこと。

誰かの選択によって揺さぶられた感情が、わたしの選択を間違いだと突きつける可能性があるだなんて。

 

それならば初めからゼロであればよかったのだろうか。

それは違うと、悔いの残るわたしであっても断言する。

出会うこと、心を動かすこと、何かに、誰かにまつわる全てが、わたしの人生に色をつけてくれる。一人では限界がある。それがどんなに暗い色であっても、そのくらい強い色をつけてくれるのであれば、それも生きていく彩りの一つとなる。

20230506

寝ようとすると眠れない。

日記を書くのに憧れがあるのでこの不毛な時間を有効活用しますかな。

 

10時くらいにいつも通りグダグダしながら起床、身支度を済ませ12時過ぎくらいにオンラインコンテンツを摂取。

小腹が空いていたが夜に飯を食う約束があったためタバコ数本で凌ぎ、万全の状態で夕食を迎える。久々に食べ物で満腹を感じる。

家に帰宅しぼんやり過ごす。読みかけの小説があるのでこういう時間に読めればいいのだが、ここ数日は全く手がつけられていない。先月、先々月は結構読書欲があったはずなのだが、休みだと横になりがちで頭を使わない活動ばかりをしてしまう。

鬱病のような小説だと言っても、小説なのだからエンタメであり、エンタメなのだったら義務感で消費していいことはない、と経験則で知っている。読みたいときに一気に読み進める。これがお互い(?)にとって最もいい接し方なのだろう。これまで記憶に残る本というのはまさに貪るように読んだものばかりだった。だから日記を優先します。

 

ただ、そのように気楽に離れられるのはあくまでエンタメの提供側が見えないからだ。

人と人とが関わってしまうと、自分だけの都合で物事を判断できなくなってしまう。それがたとえ提供者と消費者という非対称な関係だとしても、どちらもどこかに暮らしのある人間であって、立場だけでは語れない背景がたくさんある。気楽に話している中でも、少しづつ感じるところがあって、それは情となり、ただの消費者ではいられなくさせる。

何か目指すところがあるのなら、同じ方向を向いていたい。

落ち込むことがあるのなら、何か少しでも役に立ちたい。

一度消費者を超えてしまうともう後には戻れなくて、小さな言葉にも敏感に反応して、何かできるのではないかと錯覚して、会うことが義務だと思い込んで、貴重なお金や時間を費やしてしまったりする。何が正解なのかわからないまま、そして自分がただの消費者であることも忘れ去ってしまって、その人の目標ではなく、その人自身だけを見てしまうようになる。その人が今の道を選ばなければ、決して交わることのなかった二つの人生のはずなのに。

ただ、それは行き過ぎなければ悪いことばかりではない。

その人が感じた喜びが、まるで自分のことのように感じられる。かなりドライな人間関係しか構築できなかったわたしが、いわば擬似的な人間関係によって、小さい子供向けのアニメなんかで語られるような美しい感情に出会うことができた。誰かと一緒だと美味しい、なんて言葉を理解できなかったのに、今では手にとるようにわかる気がする。なんでも一人で済ませてきたのに、自分の感情を表に出さないようにしてきたのに、デフォルトの人間理解を敵として設定していたのに、云々。

もちろんそれは擬似的なものである。お金や時間を多少かけたと言っても、それはその人の表現とは無関係だ。その人の努力はその人のものでしかなく、努力ができる環境を構築したわけでも、その他あらゆる直接的なサポートをしたわけでも一切ない。ただの一消費者であり、そこは履き違えてはならない。

しかし、喜びは現にわたしの中にある。向かうべき場所へたどり着いた者の喜びがどういうものなのか、わたしは知ってしまった。

それならばどうすればいいのか。

その喜びを擬似的じゃない本物に変えてあげれば良い。

何かしら目標を定め、それに向かって進む。その人のように努力はできないかもしれないけど、自分なりに一歩ずつ。

 

振り返れば、出会いがなければ今生きているかわからない。生きていたとしても、おそらく聞いたこともない国の海岸で黄昏ていただけだろう。

ちゃんと生きることがそれほど素晴らしいことなのかはわからないが、目標がないよりは生きている意味がある気がする。