20231005

私が私の生き方について、自分の中で納得してそう決めたなら、そのように進めばいいし、違和感があればいつだって修正すればいい。何においても他人と比べることは自分の生き方をブレさせる原因になるので、私は「昨日より今日の自分を嫌いにならない」ように生きている。どうしても比較をしてしまうのであれば、その対象を自分自身に向ければ解決だ。その上、判定条件を「嫌いにならないこと」とより良い方向へ向かうための下限値に設定している。別に毎日毎日自分を更新し続ける必要はない。ただ、悪い方向が続かないようにすれば良いだけのことだ。

もちろん自分自身の言葉に絡めとられるのも、他人と比較してしまうことと同じくらいに自分の生き方を狭めてしまう。だから、上のように言ったけど、実際はもっと緩く、別に嫌いになっていても死ぬ時までのトータルで考えればいいや、なんて思っているし、何ならそんなに自分への気持ちを確認してもいない。

ただし、先ほどの「昨日より今日の自分を嫌いにならない」という指針は、短い言葉で端的に他人と比較しない生き方を示すものとして気に入っている。生き方に悩む人が目の前にいれば、こんな感じで下限値を判定基準にして緩く生きれば良いんじゃない、なんて伝えると思う。それで自分は気楽に生きられている実感があるから。

 

でもそれも、恵まれた側の感覚でしかないのかもしれない。

昨日の自分と比較するだけで、しかも昨日の自分と同じでい続けてもそれを達成してしまう基準で、生き続けていて、それなりの暮らしが送れてしまう能力なり環境なりを用意されているというだけなのかもしれない。日銭を稼がないといけないのなら自分を見返す余裕なんてないし、大きなストレス源が外部にあれば自分との比較なんて悠長なことは言っていられない。最低限昨日の自分のままでも生きていられるのは、高等教育の機会を得られ、一定以上の経験を積ませてもらったからだ。そうでなくて、人並みでなければ生存することができないのであれば、まず他人の生き方を参考にしなければ、最初の一歩すら踏み出し方がわからない。

自分が自分の人生を生きていく中で見出した答えを他人に伝えることが暴力になりうる。何も背景事情を知らないのに、自分がこう生きていて上手く行っているからあなたもこうした方が良いと伝えても、そんなのできない、意味がわからない、なんて不快な気持ちにさせるだけかもしれない。

力になりたい。美しい思いに思えていたけど、自分が実際そう思うとき、そこに含まれる身勝手さに少しづつ気づくことができるようになったと思う。力になりたいとか、助けてあげたいと思うことは尊い。だけど、そこでかける言葉なり態度なりは、たとえ多くの人が正しいと思うことであっても、傷つける可能性を孕んでいる。

だから言葉をかけるのをやめよう、と思うのもまた身勝手だ。私に見せた苦しみは私にだけしか見せられないものかもしれない。それを無視して、言葉が暴力になるからと何もしないのは、ただの自己保身で傲慢な振る舞いだ。

自分自身の人生の過ごし方と同じように、他者との関わり方にも正解はない。相手がどういう方向を向きたいのかを汲み取り、何か自分と共通することがあればあけすけに自分の経験を話してみる。でもそれはアドバイスでもなんでもなく、自分の話をしたいから話している、そんな雰囲気を纏っている。

 

言葉の暴力性をなくせるとしたら、自分が自分に向けて発するしかない。自分が思ったそのままを自分に言うだけなら、他の人を傷つけることはない。

同じように、誰かに何かを伝えたいとしても、それを誰かに向けて発するのではなくて、自分に言い聞かせるために発すれば、むしろそちらの方が目の前の人に影響を与える言葉になるのかもしれない。少なくとも私に”響く”言葉や文章は、その人がその人のためだけに発せられたものだけだ。