冷やし笑顔やめました

眠れずに日の出を迎えてしまったが、そのポジティブな副作用として社会に対する冷笑をやめようと意識した。妙に高いテンションとなり、これは単なる軽躁でしかないのかもしれないけれども、見ていた動画や最近読んだ本、行ったイベントの影響も相まって、自分が何を大事にすべきなのか、その光を視界に収めることができた。

社会に対して冷めた目を向けることがなくなったとしても、それは社会に対して真剣に向き合うこともただ迎合することも意味しない。社会を視界の脇に置き、自分の内側に問いかけながら大切にすべき価値観を醸成していく。おそらくそれは一言で言えば誠実さという言葉に集約されるものであるだろうか。社会や他の人に向けてではなくただ自分のために、何かを吸収しまた別の何かへと表現していく。その際、決して自分を見失うことなく、そして嘘をつかない。自分が大事だと思うことを、一才の妥協なく表現に込める。気力体力はどんどんなくなっていく。肉体的な問題でできないことも多くなるだろう。それが短期的な妨げになるとしても、産まれ持った特性だから仕方ない。だが、わずかにでも気力があるのならば、それを誠実に自分の表現に注がなくてはならない。半歩ずつでも踏み出さなければならない。一年に数歩でもいい。後ろにさえ戻らなければ。

しばらくの間は生きることをやめないだろうが、そうなれば現実的な問題として社会との関わりは避けられない。だがそれも自分の誠実さへの挑戦だと思えば、耐えることくらいはできるはずだ。無意識の中に社会が浸潤しないよう意識する。触れざるを得ない社会に自分が納得できない何かを見つけた時には、それを反面教師として価値観を深めていく。そういう風に考えれば、社会の出来事は全て自分で自分が納得できる存在となるためのきっかけだと捉えられる。

どうせまた気分は落ち込んでしまうのだろう。そしてそれを耐えれば、また少し今日ほどではないにしろ気分は上がってくるはずだ。バラバラの振幅で振動している自分の精神状態。次の頂上では、自分に対する納得が一つ増えるように、麓へ向かって歩き出す。

かつみさゆり

悠木碧が救われるフィクション(アニメ版僕だけがいない街)を今更ながら見て、心の底からよかったと思った。手放しで全ての瞬間がよかったと思えたわけじゃなかったけれど、悠木碧が救われた姿を見てただただ純粋な喜びを得ることができたし、それだけで見た価値があったと思える。

一方現実は…

あの時を呼び覚ませばきっとまだ生きていけるのかもなんて

理科室の記憶がうっすらある。黒い難燃性の素材でできた机が6個くらい並んでいただろうか。狭い校舎の狭い部屋の中で6個の机を置くのは大変なことで、隣の人との間隔は一人分もなかったように覚えている。床も暗い色だった気がする。アルコールランプとかガスバーナーとか、そんなものを使う可能性のある部屋ではどこの素材も燃えにくいものを使う外はなく、それが関係しているのかしていないのかその部屋の記憶は明るい景色ではなかった。ただそこにふっと息を吹きかけてくれるあの娘がいれば、そこにだって光は差す。一瞬目があっただけだった気がする。ああ、いつ見てもかわいいな。一瞬の内にいつもの感想を抱いた私の顔に、唐突に強い空気の流れが感じられた。あの娘が口を少しだけ尖らせて、私目掛けて息を吹きかけてきたのだった。私を見てくれたこと、その存在を意識して反応してくれたこと、ましてやその反応が口を尖らせて空気を送るなんて、一歩間違えれば…。空気が顔に到達したその一瞬のうちにさまざまな思いが私の胸を去来して、もう何が適切な反応なのかがわからなくて、でも嬉しくて、私は椅子から転げ落ちるなんて大袈裟な動きをかましてしまったのだった。

軽い空気の流れと対照的な大きな動きだった。そんな不釣り合いな反応がこの場で正解であったはずもなくて、そこからどういう応答があったのか記憶はない。彼女にとってみればなんでもない動きの一つで、たまたま顔が見えて、なんか吹きかけてみたくなって、そこに言語化できるような理由は少しもなかったのかもしれない。だから私の反応が予想外に大きかったことに応答を返すことができなかったのかもしれない。あるいは、そんな大袈裟な反応を返したことをそれとなく咎められたり、何事もなかったかのように無視したり、そんな辛い記憶を無意識に消去してしまったのかもしれない。ああ、私にとってその軽い空気の動きが、どれほどの喜びをもたらすものとも知らずに!

彼女は私にとって初恋であり、その後ずっと思い続けることとなる人でもある。世間的には気持ちの悪いその思いは、10年以上経過した今でさえ小さくない心の領域を占めている。それが私の恋愛面に影を落としたなんて、それは言い訳に過ぎないけれど、そう思いたくなるほどに、ことあるごとに思い出してしまう。だって、わざわざこちらを向いてくれて、あまつさえ唇をとんがらせて、空気の流れをこちらへと起こしてくれたんだよ? それはあの頃の自分にとっては見も知らぬ恋の始まりというか、フィクションの世界にしかない濃密な男女の絡みの始まりというか、そんなものに思えたのだった。だがこうしてつらつら書き連ねている内容も、その半分くらいは当時を思い出しながら付け加えている部分である。実際、そんな昔の記憶ははっきりと残っていないし、彼女が息を吹きかけてくれたその瞬間にどういう表情をしていたのか、本当に唇をとんがらせていたのかでさえ記憶にはない。息を吹いたのだからそういう口の形になっていたのだろうという推測でしかない。私の反応に対する彼女の応答への記憶が曖昧なのはなぜだろう。そんなに思っていた人ならば、まさに私に向けた一連の行動は具に観察しているはずではないのか。そもそも本当に息を吹きかけられたのだろうか。そもそも思い人ってどんな人だったのだろう。その出来事が起こった理科室ってどこの学校のどの階にある部屋だったのだろう。

最近は夢と現実の出来事の区別がつかなくなってきている。こういうことあったよね、なんて人に問いかけてみても、それが私の見た夢の中の話でしかなかったなんてこともあった。朧げな記憶は夢との区別がつかない。私の小さい頃の記憶なんて最近の記憶よりもうんと当てにならないはずだ。だが、その中にはさっきから延々書き連ねている楽しい記憶だって少ないながらも存在する。ならばそこに疑問を挟むことが何を生み出すのだろう。自分の記憶を信じる。これも立派な信仰であり、生きる手段だ。

LUMINE?

剣を持ったままではお前を抱けない

剣を持たなければお前を守れない

 

誰かに好かれなければ自分を好きになれない

自分を好きになれなければ誰かに好かれない

 

あなたらしくをあたらしく

LUMINE

違うだろー!?

あなたの あしたを あたらしく

やっぱ救いは信仰??

GU

GUを着る自由がある(爆笑)、ユニクロでなくてね。

でもさ、今手元にあるお金じゃさ、なんか都会に行かないと見ることのできないカタカナばかりのよくわからないブランドの服は買えないじゃん、着られないじゃん。結局着るも着ないも選べる自由なんてのは、手札の中で選んでいるだけで手元にないものは何も選べないんだよな。自由って言われても、それはありとあらゆる選択肢から選べるものではなくて、生まれた時から制限された中で選ぶしかない。そもそも服を着ないことを選べばカーテンを閉めた部屋の中から出られなくなってしまうし。

昔よりうんと自由になったと言われている。人権が発明され、人々は奴隷のような扱いをおおっぴらに受けることがなくなった。さまざまな国の憲法で自由の保証が明記されており、自由が制限されるような事態が起こっていれば他国から非難を浴び改善を求められる。国レベルでなくとも自治体だったり企業だったり大小あらゆるコミュニティでそれは適用される。

またさまざまな科学技術によって生活の手間が減り、空いた時間を他のことに費やすことができるようになった。ごく少数の特権階級に認められなくても、こうして自分の文章を拵えて誰が読むでなくとも形の上では発表することができるようになった。消費だけに勤しむこともできるし、商業ベースに乗せて発表するだけでなく、趣味的な範囲で自分の表現を求めることもできる。

選択肢は増えたのだろう。でもそれは、さらに大きな枠組みに縛られた選択肢にしか過ぎない。より多くのお金を稼ぐこと、より多くの注目を集めるようになること。そうした美徳は誰も彼もの行動を縛り、その範囲内での行動を余儀なくされる。商業ベースに乗せてしまったが最後、売れる売れないをこれまでのデータから分析されて、その結果に沿う形でなければただ忘れ去られていく存在となっていく。趣味的なレベルであっても、何かをする以上それを見つめる別の誰かは存在する。インターネットで手軽にアップロードしたその何かは、見やすく整備されたPV数やその他の反応に否応なしに晒されて逃げ場はない。

そうじゃない。自分が満足すればそれでいい。そう頭ではわかっていても、いかなる時も目に飛び込んでくるそうした他者の視線がその考えを蝕んでいく。それを見ないようにしても、自分が生まれ育ってずっと触れてきた価値観が頭から消え去ることはない。

何かを成し遂げたい、自分だけの表現がしたいというような高尚な思いに基づく行動だけがそうしたものに縛られているわけではない。何を食べるか、どう暮らすか。人間としての、あるいは生物としての必要最低限の振る舞いにもそうした価値観は入り込んでくる。

この社会に産まれたが最後。周囲の全てに組み込まれた価値観から逃げられる術は私たちにはない。

そこに自由な心も、自由な身体も存在しないのだ。身体は老化に逆らえず、心臓が変な脈動を起こすことがある。心は不自由を感じていた小さい頃のまま、誰かの何かだったり、原因すらわからないような不随意な動きに支配されている。

それは別に私が社会に適応できないからというばかりではない。身体のスペシャリストと言っていいプロスポーツ選手だって必ずしも思うような成績を残せるわけではない。精神だって、感情や思考の大元は誰かの何かだったはずだ。ノーとは言わせない。とりわけ心に関しては。心の動きなんて、先ほどからうだうだ書き連ねているように、誰かがいつの間にか用意していた何か、大きなものだと〇〇主義とか小さいものだと何を嬉しく思うかとか、の品物が並べられていて、それに周囲の環境が正負あるいは中立のラベルを貼り続けて出来上がったものに過ぎない。心はただの陳列棚にしか過ぎない。負の値段がつけられていることもあるという違いがあるだけだ。

自由が増え、そこから逃げる方法を模索する人々の動きも目に入るようになった。お金稼ぎや煩わしい人間関係からの離脱。それらに共感した人々が新たなコミュニティを作り、染まりきれない人々にシェルターを提供する。あるいは、その役割を新宗教が担うことも多いのかもしれない。

確かに魅力的かもしれない。これまで強制的に押し付けられてきた価値観を客観視して、別の新たな社会を作り出すというのはどんな創作よりも力強い行動なのかもしれない。直接的に、目に見える形で流れを生み出すことができるのだ。それは、既存の価値観に染まり切った人々にも魅力的に感じられる振る舞いなのかもしれない。

だがそういう行動に踏み切る自分を想像することはできない。既存の価値観に馴染もうとも、それを否定しようとも、どちらにしろ全てを否定する魔法の言葉が頭をもたげる。

そこまでして生きたいか?

私はただエネルギーが枯渇しているだけで、別に価値観に強い否定意識を持てはしない。否定し新たな行動を起こすためにはかなりのエネルギーを要するわけで、既存の価値観に上部だけでも馴染もうとするエネルギーすらない自分には到底辿り着けそうもない。

自由とは名ばかりの、価値観にがんじがらめになった狭い檻の中にいるに過ぎない。その檻は大変に居心地が悪い。だが、檻を改修することもできず、そこから脱出しようともしない。ただ漫然と時間だけが過ぎていく。

安楽死っていう光があれば、すぐにでもそちらに向かうのにな。だが、生と死に関しては全く選択肢が許されていないし、今後もその状況は大きく変わりはしないだろう。社会は新しく産まれる人々たちで維持されなければならないのだから。

死を選ぶことだって生きる術なんだよと叫んでみても、それを肯定的に受け取る人はほとんどいない。まあ、それがただの社会性の表明である場合もあるだろうが。

 

長々と書いてきて疲れてしまった。だがその労力の割にまとまった内容を記せたとは思えない。取り止めがない上に、着地点も定まっていない。仮にもこれは公開されるものなんだぞ。そう言ったってここから推敲する力は残されていない。

そしてそうした心の動きも既存の価値観に縛られた結果なのだろう。意味や意義のあるものでなければならない。それを伝えようと努力しなければならない。

そうは言ったってなあ、とぐちぐちしても頭にこびりついた価値観からの声は止むことがない。否定したい価値観は疲れた頭では対処ができない。心はそのなすがままにされ、身体は思うように動かずまだまだまとまりのない文字列を連ねていく。

だがそうしている内に思わぬ副産物が得られた。

眠気だ。疲れた頭がもう限界だと休息を求めている。これはありがたい。朝5時までうだうだ起き続けるのはうんざりだった。

別に中身のない文章だって何かしらの意味はあるのだ。そうやって自分に言い聞かせて、でもその納得の仕方は既存の価値観そのままだよねなんてまた悩み出したりして、それでも文字を並べ続けている内に脳の疲れはどんどん蓄積されていって、もうどうにでもなれと、目を閉じる。