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不意に社会に触れてしまい、またうんざりしてしまった。

彼は変人という自意識がありながら持っている価値観は全てわかりやすい社会の反映でしかなかった。どういう仕事をしたいのか、どういう暮らしを送りたいのか、どういう人になりたいのか。別にどこかの自己啓発書のコピーと言えるほど典型的なものではなかったけれども、根本の部分は同じだった。茶番だな、なんて思いながら彼が大きな声で捲し立てる話を流し聞きしていた。

なんなら声のでかいビジネスマンやら政治家やら批評家やらなんやらすべて茶番野郎で、行動原理がすべて己の意思とは無関係に付加された性欲のみに還元されることに気付いていないのか隠しているのか知らんがそんな単純な理屈にゴタゴタと装飾を並べて着飾ってるだけのやつが社会を構築している。この世のルールはただ性欲を気付かれずに美しく着飾ったものが勝つというものでしかなく、それはヒトが遺伝子の乗り物である限り資本主義だろうが共産主義だろうが変わりないのだろう。

茶番になってしまうのはビジネスやらが表面的にはそういう欲望を覆い隠せる言説をふんだんに用意しているためであって、表現そのものを切り売りする職業ではそんな欲求に僅かながらでも自覚的にならざるを得ず、だからこそ私はその生産物を純粋に享受できるのだというのは、私の趣味を肯定するための言い訳として付記しておく。そうは言ってもそんな冷笑をしてお前は一体どういう思想で消費しているのだという指摘はごもっともで、これにもまた誠実に回答しなくてはならない。

性欲は人より弱い自覚がある。それは人と話したりネットの書き込みなんか見ていて確信していることだ。だから、外部から見たときにどうせそれ目的なんだろうと言われる性欲は、この趣味を趣味とする動機ではない。去勢したって今と同じように好きでいられる自信はある。

ただ別に直接的な性欲ばかりが制欲の表出とは言えない。人からよく思われたいだとか、そんなやましい気持ちはあるし、その延長線上にあるような、自分のアイデンティティを構築する一つのわかりやすい要素としてその趣味を求めるというのも、遠回りには性欲の表出だ。その気持ちは少なからず認めざるを得ない。それほどメジャーではないものを探し出して、この部分が良いのだとか、ここの背景にはこういう物語が隠されているのだとか、人に伝えられる程度の魅力は語れるつもりだ。そしてそれを用意するのは、他でもなく性欲の遠回りな表出としての感情がそうさせている。それがなければ別にただ己の感覚だけで好んでいればいいだけのことだからだ。とは言え、用意した魅力の語り口を披露することはない。コミュニケーションが不得手なのもあるが、そもそも人と関わるのが面倒なのだ。会話の機会があったとしても、そもそも長い言葉を発するのすら面倒で、楽をするためだけによく聞き手に回ってしまう。認知されるのも苦手だし。自閉傾向といったところだろうか、遺伝的な要因もある変えられない特性なのだ。だから、これも主要因ではない。

結局は救いを求めているのだろうな。これが今の暫定的な答えとなるだろうか。漠然とした曖昧な回答になってしまったが、今の語学力ではこの程度の表現しか思い浮かばなかった。かわいさを求めてたどり着いた今の趣味。その中で、そのかわいさを表現する演者にも興味を抱くようになった。かわいさに溢れ、ただこちらを楽しませてくれるためだけに練られたステージは、集中力のない私にも視線を釘付けにする魅力があった。現実では絶対に関わらない人たちとコミュニケーションを取る時間も、他の何もかもから目を背けるゆとりをもたらしてくれた。

とにかく社会に触れたくない。綺麗事ばかりを並べるわりに、内実は全くどろどろとした汚いものに溢れた社会を見たくない。金を稼ぐのならそれに集中しろ。上司が、取引先が、あの相談役が。どうせ誰も責任を取らない諸々の関係に縛られるな。

わかりやすさは誠実さに近い部分がある。私はその時間を価値あるものと判断したからそこにお金を払った。それは本当に単純で、だからこそ茶番の入る隙がない。

私が受け入れるのはそうした誠実な事物であった。誠実さという言葉は、趣味を続け、その感情に向き合った結果得られた副産物だ。これこそがようやく見つけた人生のテーマと言って良い。自分の殻に閉じこもりながら、その不完全な殻に開いた裂け目に誠実な瞬間を埋め込んで、その殻の中だけでも自分が納得できる整合性を保ち続ける。それは、ズタズタに引き裂かれた自己肯定感を補って、死ぬまでに少しでも自分を受け入れられる瞬間を感じるべく行われる、ただ自分のためだけの闘いなのだ。

冷やし笑顔やめました

眠れずに日の出を迎えてしまったが、そのポジティブな副作用として社会に対する冷笑をやめようと意識した。妙に高いテンションとなり、これは単なる軽躁でしかないのかもしれないけれども、見ていた動画や最近読んだ本、行ったイベントの影響も相まって、自分が何を大事にすべきなのか、その光を視界に収めることができた。

社会に対して冷めた目を向けることがなくなったとしても、それは社会に対して真剣に向き合うこともただ迎合することも意味しない。社会を視界の脇に置き、自分の内側に問いかけながら大切にすべき価値観を醸成していく。おそらくそれは一言で言えば誠実さという言葉に集約されるものであるだろうか。社会や他の人に向けてではなくただ自分のために、何かを吸収しまた別の何かへと表現していく。その際、決して自分を見失うことなく、そして嘘をつかない。自分が大事だと思うことを、一才の妥協なく表現に込める。気力体力はどんどんなくなっていく。肉体的な問題でできないことも多くなるだろう。それが短期的な妨げになるとしても、産まれ持った特性だから仕方ない。だが、わずかにでも気力があるのならば、それを誠実に自分の表現に注がなくてはならない。半歩ずつでも踏み出さなければならない。一年に数歩でもいい。後ろにさえ戻らなければ。

しばらくの間は生きることをやめないだろうが、そうなれば現実的な問題として社会との関わりは避けられない。だがそれも自分の誠実さへの挑戦だと思えば、耐えることくらいはできるはずだ。無意識の中に社会が浸潤しないよう意識する。触れざるを得ない社会に自分が納得できない何かを見つけた時には、それを反面教師として価値観を深めていく。そういう風に考えれば、社会の出来事は全て自分で自分が納得できる存在となるためのきっかけだと捉えられる。

どうせまた気分は落ち込んでしまうのだろう。そしてそれを耐えれば、また少し今日ほどではないにしろ気分は上がってくるはずだ。バラバラの振幅で振動している自分の精神状態。次の頂上では、自分に対する納得が一つ増えるように、麓へ向かって歩き出す。

かつみさゆり

悠木碧が救われるフィクション(アニメ版僕だけがいない街)を今更ながら見て、心の底からよかったと思った。手放しで全ての瞬間がよかったと思えたわけじゃなかったけれど、悠木碧が救われた姿を見てただただ純粋な喜びを得ることができたし、それだけで見た価値があったと思える。

一方現実は…

あの時を呼び覚ませばきっとまだ生きていけるのかもなんて

理科室の記憶がうっすらある。黒い難燃性の素材でできた机が6個くらい並んでいただろうか。狭い校舎の狭い部屋の中で6個の机を置くのは大変なことで、隣の人との間隔は一人分もなかったように覚えている。床も暗い色だった気がする。アルコールランプとかガスバーナーとか、そんなものを使う可能性のある部屋ではどこの素材も燃えにくいものを使う外はなく、それが関係しているのかしていないのかその部屋の記憶は明るい景色ではなかった。ただそこにふっと息を吹きかけてくれるあの娘がいれば、そこにだって光は差す。一瞬目があっただけだった気がする。ああ、いつ見てもかわいいな。一瞬の内にいつもの感想を抱いた私の顔に、唐突に強い空気の流れが感じられた。あの娘が口を少しだけ尖らせて、私目掛けて息を吹きかけてきたのだった。私を見てくれたこと、その存在を意識して反応してくれたこと、ましてやその反応が口を尖らせて空気を送るなんて、一歩間違えれば…。空気が顔に到達したその一瞬のうちにさまざまな思いが私の胸を去来して、もう何が適切な反応なのかがわからなくて、でも嬉しくて、私は椅子から転げ落ちるなんて大袈裟な動きをかましてしまったのだった。

軽い空気の流れと対照的な大きな動きだった。そんな不釣り合いな反応がこの場で正解であったはずもなくて、そこからどういう応答があったのか記憶はない。彼女にとってみればなんでもない動きの一つで、たまたま顔が見えて、なんか吹きかけてみたくなって、そこに言語化できるような理由は少しもなかったのかもしれない。だから私の反応が予想外に大きかったことに応答を返すことができなかったのかもしれない。あるいは、そんな大袈裟な反応を返したことをそれとなく咎められたり、何事もなかったかのように無視したり、そんな辛い記憶を無意識に消去してしまったのかもしれない。ああ、私にとってその軽い空気の動きが、どれほどの喜びをもたらすものとも知らずに!

彼女は私にとって初恋であり、その後ずっと思い続けることとなる人でもある。世間的には気持ちの悪いその思いは、10年以上経過した今でさえ小さくない心の領域を占めている。それが私の恋愛面に影を落としたなんて、それは言い訳に過ぎないけれど、そう思いたくなるほどに、ことあるごとに思い出してしまう。だって、わざわざこちらを向いてくれて、あまつさえ唇をとんがらせて、空気の流れをこちらへと起こしてくれたんだよ? それはあの頃の自分にとっては見も知らぬ恋の始まりというか、フィクションの世界にしかない濃密な男女の絡みの始まりというか、そんなものに思えたのだった。だがこうしてつらつら書き連ねている内容も、その半分くらいは当時を思い出しながら付け加えている部分である。実際、そんな昔の記憶ははっきりと残っていないし、彼女が息を吹きかけてくれたその瞬間にどういう表情をしていたのか、本当に唇をとんがらせていたのかでさえ記憶にはない。息を吹いたのだからそういう口の形になっていたのだろうという推測でしかない。私の反応に対する彼女の応答への記憶が曖昧なのはなぜだろう。そんなに思っていた人ならば、まさに私に向けた一連の行動は具に観察しているはずではないのか。そもそも本当に息を吹きかけられたのだろうか。そもそも思い人ってどんな人だったのだろう。その出来事が起こった理科室ってどこの学校のどの階にある部屋だったのだろう。

最近は夢と現実の出来事の区別がつかなくなってきている。こういうことあったよね、なんて人に問いかけてみても、それが私の見た夢の中の話でしかなかったなんてこともあった。朧げな記憶は夢との区別がつかない。私の小さい頃の記憶なんて最近の記憶よりもうんと当てにならないはずだ。だが、その中にはさっきから延々書き連ねている楽しい記憶だって少ないながらも存在する。ならばそこに疑問を挟むことが何を生み出すのだろう。自分の記憶を信じる。これも立派な信仰であり、生きる手段だ。

LUMINE?

剣を持ったままではお前を抱けない

剣を持たなければお前を守れない

 

誰かに好かれなければ自分を好きになれない

自分を好きになれなければ誰かに好かれない

 

あなたらしくをあたらしく

LUMINE

違うだろー!?

あなたの あしたを あたらしく

やっぱ救いは信仰??