GU

GUを着る自由がある(爆笑)、ユニクロでなくてね。

でもさ、今手元にあるお金じゃさ、なんか都会に行かないと見ることのできないカタカナばかりのよくわからないブランドの服は買えないじゃん、着られないじゃん。結局着るも着ないも選べる自由なんてのは、手札の中で選んでいるだけで手元にないものは何も選べないんだよな。自由って言われても、それはありとあらゆる選択肢から選べるものではなくて、生まれた時から制限された中で選ぶしかない。そもそも服を着ないことを選べばカーテンを閉めた部屋の中から出られなくなってしまうし。

昔よりうんと自由になったと言われている。人権が発明され、人々は奴隷のような扱いをおおっぴらに受けることがなくなった。さまざまな国の憲法で自由の保証が明記されており、自由が制限されるような事態が起こっていれば他国から非難を浴び改善を求められる。国レベルでなくとも自治体だったり企業だったり大小あらゆるコミュニティでそれは適用される。

またさまざまな科学技術によって生活の手間が減り、空いた時間を他のことに費やすことができるようになった。ごく少数の特権階級に認められなくても、こうして自分の文章を拵えて誰が読むでなくとも形の上では発表することができるようになった。消費だけに勤しむこともできるし、商業ベースに乗せて発表するだけでなく、趣味的な範囲で自分の表現を求めることもできる。

選択肢は増えたのだろう。でもそれは、さらに大きな枠組みに縛られた選択肢にしか過ぎない。より多くのお金を稼ぐこと、より多くの注目を集めるようになること。そうした美徳は誰も彼もの行動を縛り、その範囲内での行動を余儀なくされる。商業ベースに乗せてしまったが最後、売れる売れないをこれまでのデータから分析されて、その結果に沿う形でなければただ忘れ去られていく存在となっていく。趣味的なレベルであっても、何かをする以上それを見つめる別の誰かは存在する。インターネットで手軽にアップロードしたその何かは、見やすく整備されたPV数やその他の反応に否応なしに晒されて逃げ場はない。

そうじゃない。自分が満足すればそれでいい。そう頭ではわかっていても、いかなる時も目に飛び込んでくるそうした他者の視線がその考えを蝕んでいく。それを見ないようにしても、自分が生まれ育ってずっと触れてきた価値観が頭から消え去ることはない。

何かを成し遂げたい、自分だけの表現がしたいというような高尚な思いに基づく行動だけがそうしたものに縛られているわけではない。何を食べるか、どう暮らすか。人間としての、あるいは生物としての必要最低限の振る舞いにもそうした価値観は入り込んでくる。

この社会に産まれたが最後。周囲の全てに組み込まれた価値観から逃げられる術は私たちにはない。

そこに自由な心も、自由な身体も存在しないのだ。身体は老化に逆らえず、心臓が変な脈動を起こすことがある。心は不自由を感じていた小さい頃のまま、誰かの何かだったり、原因すらわからないような不随意な動きに支配されている。

それは別に私が社会に適応できないからというばかりではない。身体のスペシャリストと言っていいプロスポーツ選手だって必ずしも思うような成績を残せるわけではない。精神だって、感情や思考の大元は誰かの何かだったはずだ。ノーとは言わせない。とりわけ心に関しては。心の動きなんて、先ほどからうだうだ書き連ねているように、誰かがいつの間にか用意していた何か、大きなものだと〇〇主義とか小さいものだと何を嬉しく思うかとか、の品物が並べられていて、それに周囲の環境が正負あるいは中立のラベルを貼り続けて出来上がったものに過ぎない。心はただの陳列棚にしか過ぎない。負の値段がつけられていることもあるという違いがあるだけだ。

自由が増え、そこから逃げる方法を模索する人々の動きも目に入るようになった。お金稼ぎや煩わしい人間関係からの離脱。それらに共感した人々が新たなコミュニティを作り、染まりきれない人々にシェルターを提供する。あるいは、その役割を新宗教が担うことも多いのかもしれない。

確かに魅力的かもしれない。これまで強制的に押し付けられてきた価値観を客観視して、別の新たな社会を作り出すというのはどんな創作よりも力強い行動なのかもしれない。直接的に、目に見える形で流れを生み出すことができるのだ。それは、既存の価値観に染まり切った人々にも魅力的に感じられる振る舞いなのかもしれない。

だがそういう行動に踏み切る自分を想像することはできない。既存の価値観に馴染もうとも、それを否定しようとも、どちらにしろ全てを否定する魔法の言葉が頭をもたげる。

そこまでして生きたいか?

私はただエネルギーが枯渇しているだけで、別に価値観に強い否定意識を持てはしない。否定し新たな行動を起こすためにはかなりのエネルギーを要するわけで、既存の価値観に上部だけでも馴染もうとするエネルギーすらない自分には到底辿り着けそうもない。

自由とは名ばかりの、価値観にがんじがらめになった狭い檻の中にいるに過ぎない。その檻は大変に居心地が悪い。だが、檻を改修することもできず、そこから脱出しようともしない。ただ漫然と時間だけが過ぎていく。

安楽死っていう光があれば、すぐにでもそちらに向かうのにな。だが、生と死に関しては全く選択肢が許されていないし、今後もその状況は大きく変わりはしないだろう。社会は新しく産まれる人々たちで維持されなければならないのだから。

死を選ぶことだって生きる術なんだよと叫んでみても、それを肯定的に受け取る人はほとんどいない。まあ、それがただの社会性の表明である場合もあるだろうが。

 

長々と書いてきて疲れてしまった。だがその労力の割にまとまった内容を記せたとは思えない。取り止めがない上に、着地点も定まっていない。仮にもこれは公開されるものなんだぞ。そう言ったってここから推敲する力は残されていない。

そしてそうした心の動きも既存の価値観に縛られた結果なのだろう。意味や意義のあるものでなければならない。それを伝えようと努力しなければならない。

そうは言ったってなあ、とぐちぐちしても頭にこびりついた価値観からの声は止むことがない。否定したい価値観は疲れた頭では対処ができない。心はそのなすがままにされ、身体は思うように動かずまだまだまとまりのない文字列を連ねていく。

だがそうしている内に思わぬ副産物が得られた。

眠気だ。疲れた頭がもう限界だと休息を求めている。これはありがたい。朝5時までうだうだ起き続けるのはうんざりだった。

別に中身のない文章だって何かしらの意味はあるのだ。そうやって自分に言い聞かせて、でもその納得の仕方は既存の価値観そのままだよねなんてまた悩み出したりして、それでも文字を並べ続けている内に脳の疲れはどんどん蓄積されていって、もうどうにでもなれと、目を閉じる。

生存

生きようと思えるためには何にせよ信仰が必要だ。

 

信仰といってイメージするのは宗教だが、別に信じるものは宗教じゃなくてもいい。宗教に似たものとして学問の意義や素晴らしさを信じてもいいし、民主主義とか社会の大枠を定義する様々な主張に傾倒してもいい。リアルでもバーチャルでも、世界中で様々な人たちが様々な主義を重んじながら対立する人々を攻撃しまくっている。ただ一手間、ツイッターなりその他SNSなんかで関連するキーワードを検索してみればいい。さも自分が世界を変えられるような、自分だけが真実に気づいているかのような、ただの文字列を超えたエネルギーをそれらの主張から感じることができるだろう。そうした闘いに集中している人たちは皆、力にあふれている。自分の信じるものを誰かに信じさせたい。その一心で、決して何も変えられる力を持たない場末の掲示板を埋め尽くしている。ああ、なんて生を感じる場なんだろう。

 

だが別に、そんな大それた信仰だけがその人を生かし続けてくれるわけではない。社会の大きな流れに目を向けなくたって、日常の中にも信仰の対象は山ほど隠されている。

現代社会で大きな力を得ているのが資本主義だが、その中で生きていくには多かれ少なかれ資本主義を信じる必要がある。ナントカ主義なんて言葉を持ち出したのはよくなかった。ただ普段何気なく暮らしているそのまさに生活の中に、信仰によって維持されている仕組みがあふれている。なぜ働かなければならないのか。なぜ物を得るために貨幣との交換という手続きを経なくてはならないのか。なぜ今のままではだめで、成長しなければならないのか。

あるいはそれは家族や性だったりする。好きな人と結ばれて、一つ屋根の下で暮らして、子供を授かり、社会の一員としてしっかりと育てていく。家庭を磐石なものとするために、夢のマイホームを建てたり、生命保険に加入してリスク管理を行う。そして、そうした「ちゃんとした暮らし」を送ることこそが紛れもない幸せなのだと。それはすべて、社会を維持しなければならないという生命誕生以来の至上命題を達成するため。私たちが私たちであるために、先祖が形作ったものをこの世界に継承していくために。

 

私たちがこの世に生を受けてから今の今までずっと、そういった価値観を心の底から信じている人々に囲まれて暮らしてきて、そんな信仰が途切れなく生み出されている。周囲の人たちと同じようにそれらを確固として信じ続けることで、彼らと同じように生き続けることができる。

それしか、生きる道はないのだ。

あるいは、そうじゃない人は見えなくさせられていたのかもしれない。

多様性が叫ばれて久しい現代社会。社会の主流の価値観に馴染めない人々にもいくらか注目が集まっている。結婚や恋愛は私の幸せの条件には当てはまらない。労働で自己実現をするのではなく、自分らしく居れる場所を見つけたい。もっと単純な主張だと、働きたくない、など。

そうした人々の中には、こうした自分に馴染まない価値観を押し付ける社会は間違っているのだと声高に叫ぶ人もいる。恋愛至上主義は間違っている。資本主義は破綻している。この社会はもう限界を迎えている。明確な反〇〇主義の形を取ることもあれば、別の議論の中に巧妙に主張を紛れ込ませることもあるし、エッセイという形で素朴な疑問として投げかけることもある。

様々な社会運動が巻き起こる中で、主流ではない主張がなされやすくなる土壌ができた。主流の価値観を信じられない人々にとってそうした声が生きる力となることも多々あっただろう。私もそうした声に生きづらさを救われたと感じた経験はあった。今の状況や心理状態に答えが見つかったような気がして、やっと自分らしく生きることができるのだと思えた瞬間もあった。

 

でも今では、そのすべてが馬鹿らしい。

主流の価値観を信じようが、それに反発して別の生き方を模索しようが、やっていることはどれも同じなのだ。主流の価値観であれば正〇〇主義の信奉者として、傍流の価値観ではれば反〇〇主義や脱〇〇主義の信奉者として、向いている方向は違うかもしれないが同じ行動をしているだけなのだ。ただ何かを心の底から信じ、それに従い行動を起こしているだけなのだ。

アンチ〇〇が生きていられるのはその〇〇に対し逆向きの確固たる信仰心を抱いているから。脱〇〇を掲げている人も同じことだ。

皆、誰かが用意した何かを信じている。信じることで、生き続けることができる。

私はもはや、何も信仰することができない。

お金を稼がなければならないことに肯定も否定もできない。ただ、興味がないのだ。

結婚だったり、自己啓発だったり、あるいは充実した趣味だったり。この世に存在するありとあらゆるものそのすべてに心の底から傾倒することができない。

どうでもいい。その言葉が何をする時でも頭に浮かぶ。そう思う暇を与えないようにひたすら過去に好きだと思った記憶のある対象を実行しているが、それでもわずかな隙間をついてその感情が染み出してくる。

 

何も信じられないならば生きるのをやめるしかない。それかもしくは、洗脳装置によって確固たる信仰を自然と感じられるようになるしかない。正しいことを正しいと、あるいは正しいことを間違っていると、ただ強烈な電気信号によって自動的に感じさせられるのだ。そもそも自由意志なんてないのだし、こちらとしてはいつでも洗脳される準備は整っている。

なんでもいいから、何がどうなれば幸せなのか脳を細工してくれてもいいから教えてくれ。

そうできないのならばその時は。

すべての無産階級はおっさんのちんぽを勃起させるためだけに存在する

ブルーカラーたちはその待遇や対外的評価の差異が表す社会的評価の優劣によって間接的に、ホワイトカラーたちはある者は直接指導という名の罵声を浴びせかけられるような直接的な手段によって、またある者はしたり顔で3時間もかかる割に何も生み出さない会議にのみ使用される虚無を作成することによって間接的に、ハゲか小太りのおっさんたちの権威を裏付け、それによりおっさんたちのちんぽはバキバキに勃起する。

勃起には中毒性があり、おっさんたちは再び、より短い頻度で快楽を得られるように無産階級たちに無理難題を押し付ける。

だが、押しつけられる彼らもまた、いつの日か気持ちよく勃起できる日を夢見ながら、その到来を少しでも早めるべく今日もまたおっさんたちのちんぽを言われるがままにしごいてしまうのだった。

今の勃起と未来の勃起が渦巻くこの虚無スパイラルは、人類が存在する限り永遠に続いていく。おまけに、噴飯物なことに、人類は自分たちのことを知性ある生物だと感じている。

なんだ、猿の惑星ってここにあったんですね。

 

*ここでのちんぽは精神的ちんぽのため性別は関係ありません

まじで寝れん

目からビームを出してやると、観衆は大きな歓声をあげた。

満足した僕は再びビームを出す。先ほどと同じ大きさの歓声が響く。

三度ビームを。同じ歓声。

途方もない時間をかけて延々と繰り返していたら、ついにビームが出なくなった。

目をいくら見開いても、拳をいくら握り締めても、足を踏ん張っても、目の奥にある僕特有の光線発生器官は何も言わなくなった。

だが、歓声は鳴り止まなかった。それまでと全く同じように、かつてビームが飛んでいった方向へと視線を合わせて追いかける。

観衆たちにはビームが見えているのだ。僕が出ないと思い込んでいるだけで、ちゃんとそこにはビームがあった。彼らの見ている一筋の光は、僕が目を見開くたびにかなたへと飛び去っていく。

観衆たちの期待はまだまだ続く。手応えのないビームを再び、途方もない時間をかけて繰り返し出していった。

目の筋肉が痙攣してきた。あまりにも頻繁に目を見開いたおかけで、僕の顔面は限界に達していた。

強く見開くことができない。目に入らない力を補うように拳と足に力を込めるが、ビームの本質は目を見開くこと。それができないのだから想像上のビームでさえ出している感覚がない。

それでも観衆たちの興奮はおさまらない。僕が拳に力を入れるたびに、あの動きを繰り返している。出した実感のないビームを、彼らは目で懸命に追っている。

その内に握り締めた拳が血塗れになり、踏ん張りすぎた足に激痛が走り、全身が動かなくなった。

それでも観衆たちは、僕がビームを出したいと思うタイミングに合わせて同じ動きを繰り返していた。

僕が意識を失ったとしても、彼らは何かに合わせてこの繰り返しを続けるのだろうか。

何を根拠に? 何を求めて?

おさまらない歓声を浴びながら、逃げ場のない僕はかろうじて動く口でこう呟いた。

「僕たちってどうすればいいですか?」

まあ、

なんかよろしくない結果だったとしても、自然と受け入れられそうだ。

なんだって今までがずっとそうだったのだから。

 

とはいえ、何か希望を持ってしまう自分もいる。

ちょっとばかり、プラスの変化が起こったっていいじゃないか。

褒められる行為を積み重ねてきたわけじゃないが、それくらいは許されるだろう、という。

 

すべては自分がかわいいから。

傷つけられたくない、この脆く儚い自我を。ようやく形作ることのできた自我を。

それとも、「やっぱり」と思いながら傷いた経験が自我を傷つけ、元々の自分をさらけ出してしまうのか。

 

無我、空、仏教観念が頭をめぐる。

結局何もなかったならば、最後にすがるのはここなのだろうか。