伏し目がちな節目の中で

大きく人生が変わる節目に、大きなことが起こる。
大学合格のときも、そして今も。

大学時代は自分の中に大きな変化をもたらした時間だった。産まれた街を離れ、家族から距離を置くことができた。誰の目も気にすることなく、初めて自分のためだけに過ごした日々。何が好きか、何が嫌いか。一人暮らしをさせてもらった中で、ようやく自分というものに向き合う時間を得ることができた。実家に本棚はなかった。地方都市の周りには何もなかった。お金もなかった。本を読む習慣も、他の文化的な営みをする習慣も身につかなかった。それが、有り余る時間と、自分に向き合う機会を得て、少しづつ、自分の中に蓄えられていった。
その始まりは、あの記憶からだった。
大火、海水。市長とすら連絡がつかない。
一瞬にして何もかもが失われていった光景は、直接の被害がなかったわたしの心からも、一時的にしろきらきらしたものを奪っていった。
合格発表の翌日だった。
楽しさ、解放感。そんなものは簡単に流されていった。一夜明けて、余韻に浸る間もなく流されていった。

そして今。
会社を辞めると宣言したすぐ後に、ヨーロッパで感染が拡大した。
これからを考えようとしていた矢先に、その前提が崩れていく。

まただ。
大きな世界と小さな自分を結びつけてしまうのは自意識過剰でしかないのだけど、そんな風に感じてしまう。偶然でしかないはずなのに、何か因果関係でもあるのではないかと感じてしまう。

大学時代の経験が、今の私の基礎となった。あの期間がなければ、私は私という意識すら持てなかったはずだ。
その、意義深い期間は、あの忌まわしい記憶から始まった。

似た構造が、今回も。
だから、私のこれからも、あのときと同じように私にとっての大きな変化をもたらしてくれる期間となるのかもしれない。何かからの解放を約束してくれるのかもしれない。
今だって私には直接的な影響はない。あのときと同じように。
だから、少なくとも私の人生を考える限りは、この記憶が、変化の始まりとして刻まれるのかもしれない。

地域によっては少しだけ、収束の兆しが見えている。
なんだって、いつかは終わりを迎えるはずなのだ。そしてその終わりは、私の変化の始まりと重なるはずなのだ。

だが、違いもある。
こびりついた抑うつ。薄曇りの気分を晴らすような気力が、私の中に残されているのだろうか。
今度の解放は、いよいよ、生きることからの解放なのかもしれない。それは、もう二度と、節目を作らなくていいことにもつながる。

mづあい

そうして彼は落ち込んで、その短い生涯を終えた。

楽しい出来事は一瞬で終わる。そう、あっという間に。それは塗り絵をしていて、弱い色、例えば黄色とか肌色(今は差別防止のためにうすだいだいと呼ぶらしいが)の色味の調整のために強い色を重ねる時のようだ。弱い色はすぐに強さに打ちのめされてしまう。あの色が出したくて、なんとか目の前の色を分解して編み出したというのに、少し力を入れればあっという間に強さに覆い隠されてしまう。強さ。それは自分の信念を信じられることだといってもいい。うすだいだいだって、そいつだけが塗られていればまぎれもないうすだいだいなのだ。だけど、そこに赤色とか、あまつさえ黒色なんて置かれてしまえば、何も彼の意思は反映されなくなってしまう。薄く薄く、とにかくそこは理性との戦いだ。色を塗りたい、その思いに毒されてしまうと見る間もなく黒一色に塗りつぶされてしまう。ああ、今日もまた心を込めて塗ったうすだいだいが一瞬の力によって黒く塗りつぶされてしまった。気づいてからいくらうすだいだいを力強く塗ったとしても、もう元には戻れない。漆黒。暗黒。それ以外何もない。黒くなった後に初めてきづく惨劇。

ああ、生まれてこなければよかった。

ビジネス書の書き方

1 主張を考えよう

 

書店でビジネス書の棚を眺めながら、よく出てくる言葉(以下、A)をピックアップしよう。次にその言葉と逆のイメージを持つ言葉(以下、B)を思い浮かべる。そしてその言葉こそがビジネスにおいて重要なのだ、と自分に言い聞かせる(最重要ポイント)。思い込みが完了すれば、重要であると考えられる理由は何個も自然と思い浮かぶだろう。そうすればもう本文に手がつけられる。「Bと聞いて、ビジネスシーンと結び付けられる人はそう多くはないだろう」と書き出そう。あとは理由を簡潔に並べて本書の構成を述べたあと、最後に「これからその中身を見ていこう」とでもつけておけば『はじめに』の完成。

一方、Aがビジネス書で取り上げられている理由をサーチしておいて、それらの理由に反論しながら、Bの理由へと結びつけることも忘れてはならない。あまりぶっきらぼうに先人たちの主張を無視すれば、私のように友達がいなくなってしまう。そこまでできれば、「もちろん〜という主張もあるだろう。しかし〜」とか言いながらAの理由1、その反論、Bの理由1、という風に繰り返していけば第1章の完成。

 

2 主張の裏付けを取ろう

2ー1 すごい企業(多くはアメリカ)の事例を集めよう

例えばグーグルやアップル。ボストンとかマッキンゼーとかコンサルもいいし、ブランド力の高い企業の事例をかき集めてBの理由にマッチしそうなものをピックアップする。業種が多岐にわたっているからそれっぽい事例はいくらでもあるはずだし、ぴったりな事例が見つからなくても自分なりの解釈を付け加えて無理矢理繋げればいい。アクセントとしてたまに日本企業の事例を付け加えておくと吉。

2ー2 自分の経験と結びつけよう(あれば)

筆者の肩書きを気にするのがビジネス書の読者というものだ。「私は10年〜をやってきたが、そこで〜」なんて書いて、内容がまさにBの理由を体現したようなものだった暁には、読者の心は筆者に釘付けだ。

2ー3 科学的知見を活用しよう

論理的思考力が重視される時代において、やはり科学の権威というものを取り入れておきたい。脳科学や心理学、社会学とかを中心に、あるいは生物学なんかを齧って本能的な部分だと訴えてもいいのかもしれない。知見のアカデミックな世界での受け入れられ方なんてのは無視してよく、多少トンデモであっても自分の主張を裏付けるのであればじゃんじゃん取り入れていこう。なに、読者はジャーナルなんて購読していないし、していたとしても専門外の分野に口は出せない。

2ー4 失敗事例も取り入れよう

企業や自分の事例を集めようとすると、どうしても成功事例ばかり集めてしまいがちだ。Bがないばかりに失敗してしまったという事例も付け加えておくことで、さらに主張に説得力が増す。これもこじつけで良い。

 

本の序盤〜中盤にかけては、上記の内容を並べながら自分の主張を繰り返し述べていこう。

 

3 読者に歩み寄ろう

3ー1 身近な例を作り出そう

先ほど取り上げた事例はどれも有名な大企業だったり、本が書けるほどすごい著者のものだったりと、読者の立場からすると雲を掴むような話に思えてしまう。企業の1セクションの話なんかに置き換えたバージョンを作っておいて、適宜挿入しておこう。読者が身近に感じてくれれば、自分の主張もより受け入れてもらいやすくなる。先ほど述べた著者の失敗事例なんかも、親近感を感じてもらう有効な手段となりうる。

3ー2 今日からできる実践方法を考えよう

Bがどれだけ大層な言葉であっても、読者に何か変化を起こさせないようではビジネス書としてのヒットは見込めない。時にはエリートたちを、あるいはどこにでもいそうな平社員たちを事例に、実践方法とそれによってもたらされた変化を書き並べていこう。実践することはなんでもいいが実践してもらえなければ意味がない。通勤中の時間で済むことだったり、あるいは会社の休み時間に周りを巻き込んでゲーム感覚でできるものだったりするときっかけを掴んでもらいやすいだろう。

 

本の終盤では、こうした歩み寄りを見せながら自分の主張の普遍性を訴えていく。最終章はもちろん実践方法に充てる。最初に大きな主張を見せておいて、だんだんと一会社員であろう読者の立場に歩み寄っていく。最後に実践方法を書いて「あなたにもできる!」なんて言われた日には、読者はエクスタシィの境地に達してしまう。

 

科学教覚え書き

わかろうとするためには、わかることを信じなければならない。

つまり、

第一教義

人間は、自然を「わかる」ことができる

 

この信念に従うことではじめて、自然をわかろうとする試みが生じてくる。

信念は脆い。その脆さに打ち勝つためには、論理も大切だ。論理的に示されることで、わかることをより強固に信じることができる。

人間が自然をわかることができる。ここには、いくつかの飛躍がある。

・自然という言葉の含む範囲

自然とは、自ずからそうあるもの(物質・挙動)。

・自然と人間との位置関係

・わかるという到達点の意味

 

人間が観測するものの範囲

そして、わかろうとする試みを継続するためには、わかった先に何が待ち受けているのかも明確でなくとも示す必要もある。

ディストピアについて

 ありきたりであるが、1984年の素晴らしさに感銘を受けて以来、ディストピア成分のある小説が好きになった。ガチガチの世界観にどっぷり浸かり、往往にして体制側の立場に立ってそこでの暮らしや思考について思いを馳せる。側から見ればその世界のベースは今暮らしている社会とそれほど変わらないように感じる。それでも一分の隙間もない完璧な社会が構築されていて、わずかな違いがこのような世界を作り上げているのだと思うと、逆説的に今いる社会の不安定さにゾクゾクする。小説で描かれている社会と比べれば、暮らしている社会はディストピアとは到底言えなさそうだけど、しっかりとそうなる可能性を孕んでいるのだと。

 と思えているのは、我々がディストピア社会の中の住人であるからなのではないか。ディストピア社会の住人の多くは、自分たちがディストピア社会の住人であるとは思っていない。まあそれは、体制の維持を強固にするために意図的に他の社会の情報が遮断されているからというだけなのだが。この点は小説でも現実でもディストピア的な社会の共通事項のように思われる。

 その点、特に先進国と言われる社会体制では、個人が得られる情報の幅も広く、他の体制と比較しながら自分が所属する社会を批判することも許される。もちろん全ての情報が得られるわけではないにせよ、体制側が自身に都合の悪い情報のみを意図的に隠しているようには見えないし、その点で私たちが暮らしている社会はディストピア的ではないと思われている。

 ただそれが、思わされているだけだとすれば?

 都合の悪い情報が隠されることは、許されないことである。我々にはそのようなことは一切ない。批判記事が報道されることもあるし、個人が体制を批判することも許容している。意見表明の場として選挙制度を導入していて、その批判を形にすることもできる。ゆえに我々はベストではないにせよベターな社会制度なのである、と。

 ディストピア小説ディストピア小説たらしめているのは、上述の事柄を我々が信じているという点である。批判が許されること、自由があること。こうしたことが良いという信念が、そうではない体制をディストピアだと感じさせているだけなのだ。

 少なくとも小説の中では、ディストピア社会においてその体制に疑問を持たない多くの住人たちはそこまで不幸を感じていないように思える。自由を得た反面、自由によって攻撃される恐れがあるより、不幸の総量は少ないかもしれない。

 

 信念を余儀なく持たされるという点では、ある国の社会体制というレベルだけではなく、グローバルな規模でも同じなのかもしれない。お金の価値を信じないで生きることはこの地球上ではなかなか難しそうだし、それに伴って労働からも逃れにくい。人との関わりであったり、向上心を持つことであったり、信念の強制力には大小があれども、何かの価値を信じなければならないということからは逃れられなさそうだ。

 息苦しさとか虚無感とかを和らげるために、こういった価値を相対化して、その呪縛から解き放たれることがヒントになるかもしれない。

 

【追記】

 書いてるうちにちょっと思ってきていたのとずれていたので追記。

 フィクションで描かれたり現実にそうと思われているディストピアのような絶対的なものとして君臨する体制より、今我々がディストピアではないと思いながら暮らしている社会の方が不誠実で、それ故より酷いのではないかと感じている。他の体制の可能性を示し、そちらの方が良いと思うことを否定しないという自由を標榜しながらも、現実的にはお金のように組み込まれた価値観からは逃れられない。強制はしていないですよと言いながら結局押し付けてくる、そんな現代社会のスタンスに辟易している。

自覚2

生きるのに疲れたという感覚を持って久しい。

だから、限られた時間の中で満足を求めていきたい。

 

生きてきた中で感じたことは、人類が馬鹿だということ。

そして、現在主流となっている人種たちは自分たちのことを賢いと思っている。

このクソみたいな社会のクソみたいなところを自分の中だけでも消化できれば、心置きなく死ぬことができるし、もし仮にまた生き物に生まれ変わりさせられそうになっても、現世で得た信念が助けてくれるはず。

ただ、頭の中で持っているだけでは不安だ。十分に書き切れるとは思えず、単なる羅列のようになるのかもしれないが、今の思うところを書いておくことで、後で見返すための羅針盤になればよい。

 

平成の日本でしか生きていない私にとって、閉塞感というのは大きなキーワードとなる。目指すべきものがなくなった時代。一方で課題は顕在化してしまった時代。

そんな時代を生きていれば、否応無しに社会に対して疑問を持ってしまう。

別に、政治とか、ジャーナリズムとか、労働とか、そんな瑣末な事柄に問題意識を持っているわけではない。馬鹿を凝縮したような振る舞いに、そもそも興味が持てない。

そうではなく、もっと漠然とした社会の常識に対する疑問である。

地球上の多くの人が染められてしまっている価値観はたくさんあるだろう。

他の生物に対する人間の特権意識。科学に対する信頼。経済成長の肯定。

日本がどうのこうのとかではなく、もっと人類の大多数に当てはまるような事柄に対して、否定をしていきたい。

人間の特権意識は馬鹿丸出しなので言わずもがな。覇権を握っている自然科学に対しては、それは宗教でしかないという観点から見てみる。ひとりでに失敗してしまった社会主義だけじゃなくて、資本主義ももう限界にきている。有限の物体で生きていくしかできない存在のくせに、成長以外の評価軸は用意していなかったのか。

とはいえ結局、これらも瑣末な事にすぎない。人間の活動の一部をとって、小さな穴を見つけているだけにすぎない。

ただ、小さな穴もたくさん空ければ崩壊につながる。

人間活動の見かけの複雑さを崩壊させて、人間という存在を単純化したい。

人間と人工知能の対比ではない。機械として作り上げることができる程度の、反応を返す単なる箱であると信じられるようになりたい。

その一環として、倫理観とか、個々人に紐づく精神的なものも単純化ができるだろう。

 

と書いてきて、はっきりと、馬鹿なのは自分なのだと感じられた。

いや、初めからわかってはいたのだが。

自分のことがあまり好きではない私にとって、周りの人々を馬鹿にしていくことは、生き延びていく術であった。周りの人間を馬鹿だと心底思えることができれば、そこに妬みもなんの感情もない。相変わらず自分のことが嫌いだったとしても、鏡を見ながら顔を殴りつけるくらい嫌いだったとしても、比較する対象がなければ、存在は許容された。

とはいえ、馬鹿にすることは際限がない。年齢を重ねるごとに関わる存在は増えていくし、インターネットがあれば、目の前にいない人たちの存在も認識してしまう。その中で、馬鹿にする対象は無尽蔵に増えていき、最終的には大多数の人類を対象としなければいけなくなった。

で、疲れてしまった。まあ、馬鹿な自分が満足できる大多数の人類を馬鹿にできる何かが見つかれば、そこが潮時なのだろう。生きるのに耐えられなくなるのが先かもしれないが、そこら辺を「普通」に代わる生き方として、特に努力はせずに歩いていく。

 

 

結構恵まれてるように思っているのだが、なんでひねくれてしまったんだろう。

お金の苦労はほとんどさせられたことがない。人間関係もまあ、人生の後半になるほど良くなっていったような気がする。勉強にしろなんにせよ、特に努力することなく平均点は出せる。

きょうだい児であることとか、何かしらキーワードはあるのかもしれない。そんなことを貪るように調べていた時もあったけど、生きる術を手に入れた後では、大して影響もなかった。

なんやかんや言って、愛されるとかそういう瑣末なことでパッと開かれるのかもしれない。やっぱり私は馬鹿なのだ、それゆえに。