なぜ、わたしはおもしろいのか?

自意識過剰すぎるだろキモっ、としかめっ面をせずにまあ聞いてくれや。

理由は単純だ。自己肯定感がなかったから。

なかった、と書くのも違う気がする。別に自己肯定感が今あるわけではないから。ただ、心持ちを変え、人の目を気にしないようにしてから、それが必要なくなっただけのこと。今、別におもしろくある必要性は特にない。かつての自分が苦しんだ残渣が、おもしろいものを好きでいさせるし、自分がおもしろい思考回路を辿るのを好ましく感じさせている。

では過去を振り返ろう。自己肯定感がないのに、今よりうんと多くの人間と関わらなければならなかった。学校って逃げ場がないよね。部活に入らないという少数派の生き方を貫ける意志があればまた違ったのかもしれないけど。ただまあ、関わる人たちにはとても恵まれていて、幾分かは負の感情を和らげてくれた気がする。ありがとう。とは言えそれですぐに砕かれた自己肯定感が取り戻されるかと言えばそうではない。生きるのは難しいね。

で、人と関わると必然的に会話が発生する。会話は生きる中でとても難しいものの一つだ。相槌だけではほとんどいる意味がない。会話の中には議論じみたものもあって、わたしとしての言葉が明確に求められる時だってある。くだらないと一蹴できる人物でないことはこんなわたしが部活に入っていることから明らかだろう。おまけに人の目を気にしまくっていたから、誰にも嫌われたくないという思いも強かった。何かを言わなければいる意味がないし、でも何かを言えば嫌われるかもしれない。趣味もなく、何もしてこなかったわたしに有用な意見を言うことはできない。ではどうすればいいのか、というところで、おもしろくなければならない、と繋がってくる。

おもしろいことは強い。テレビにお笑い芸人が映らない日はない。何もないわたしだって何度も笑わせてもらって、束の間の安息を得たりした。笑いを取れることで確固たる地位を築くことができる。自分の居場所を見つける方法は、ここにしかないと思った。

という書き出しで本当に今お笑い芸人として奮闘しているのであれば美しい物語だが、大多数の人は主人公になれない。ただ日常の範囲で、たまにおもしろい人と思われる程度の人生を送っている。だが、そうした少しの感想がわたしに居場所を感じさせ、今の今まで死なずに生きてこれた一つの要因だとは思う。乾いた大地に一滴の水。現実世界でならばすぐ元の大地に戻るだろうが、精神世界だと意外と潤いは残り続けるものなのだ。

掛け合いを流用して、相槌にだって工夫を凝らすことができる。漫才の題材は、自分が言葉を発信する時の大きなヒントとなる。なぜおもしろいのかを考えながら見ていくと、会話に使えるさまざまな武器を獲得することができる。

読み返して、おもしろさとかけ離れた文字列がだらだらと続いていることに気づいた。説得力がまるでない。だが、それでいい。自分が自分のことを好きになれるか、が重要なのだ。

そうして生きていった先に、人の目を気にしない自分が待っていたとしても、そんな生き方に気づけるまでに命を永らえさせてくれたのはこうしたおもしろさへの思いだった。自分の会話というだけでなく、単純におもしろい漫才は何もかも忘れて楽しませてくれた。ありがとう。

まあ、漫才を題材に組み立て続けてしまったせいで、すべての会話に本来の意味を見出せなくなるという別の問題が浮かんでしまったのは別稿に譲るとしよう。