20230626

人生の選択に後悔しないためには、後悔しないように生きればいいだけのこと。

とはただ単なる強者の発想なのだろうか。

 

私にはそれだけで食べていける目覚ましい能力はなく、対人関係や運動など苦手なことの方が多い方である。とは言え、客観的に見て平均より大きく秀でた能力もあり、その部分と、多少はエミュレートできるようになった社会性を駆使してなんとか食うに困らないくらいには生きている。そんな今の状況を振り返って特に後悔する場面はない。

少なくとも、自分にとっては。

そんな注釈がつくのは、人生もったいないなとそれなりに他人に言われることがあったから。30歳に達した今ではもうそんな機会も消滅しかかっているが、割と場面も関係性もバラバラながらそのように言われることが結構あった。それくらいの人ならもっとええとこ行けたんちゃうん。○○とか考えへんかったん。もっとガツガツすればええのに。

言わんとしていることはわかるし、同級生を見ればそれなりに思った人だって自分よりうんと給与が高かったり、でかいことをしているように見えて、羨ましく感じてしまう時は正直ある。どちらかを選べるとしたら、迷いなく名の知れた道を進むだろうとも思う。

でも、自分じゃない出来事にあまり関心が持てないというのもまた素直な気持ちだ。

元々自分が大嫌いだった私が、死にきれずにグダグダ生きている間に、一人になって、ちょっと人生の夏休みを挟んだりして、視野が晴れてきて、少しずつ自分を許せるようになっている。好きも嫌いも関心があるから。その気持ちが強いほど他の感情が入る余地はなくなる。だから昔からずっと自分だけに興味を持って生きてきたことになるし、その気持ちに慣れてしまったから、昔より人への興味が入り込む余地はあるはずなのに、取り立てて興味の対象が増えることはない。昨日の自分より今日の自分を嫌いにならない。それさえできていれば丸儲けだ。

 

人と人とを比較するのは負の業の代表的な一つと小平先生も言っていたが、私が存外気楽に生きられていることを思えば本当にそうなのだろうと思う。他人は他人でしかないが、自分のことは自分の意志で方向づけられる。自分の行動が自分に起こした変化を直接感じることができる。過去の自分と現在の自分との比較、そして未来の自分への眼差し。自分のことをよりよく感じられるのであれば、きっとそれが正しい道なのだろうと思う。

 

…そんなのただの言い訳だ、と思うこともあるが。