寝ようとすると眠れない。
日記を書くのに憧れがあるのでこの不毛な時間を有効活用しますかな。
10時くらいにいつも通りグダグダしながら起床、身支度を済ませ12時過ぎくらいにオンラインコンテンツを摂取。
小腹が空いていたが夜に飯を食う約束があったためタバコ数本で凌ぎ、万全の状態で夕食を迎える。久々に食べ物で満腹を感じる。
家に帰宅しぼんやり過ごす。読みかけの小説があるのでこういう時間に読めればいいのだが、ここ数日は全く手がつけられていない。先月、先々月は結構読書欲があったはずなのだが、休みだと横になりがちで頭を使わない活動ばかりをしてしまう。
鬱病のような小説だと言っても、小説なのだからエンタメであり、エンタメなのだったら義務感で消費していいことはない、と経験則で知っている。読みたいときに一気に読み進める。これがお互い(?)にとって最もいい接し方なのだろう。これまで記憶に残る本というのはまさに貪るように読んだものばかりだった。だから日記を優先します。
ただ、そのように気楽に離れられるのはあくまでエンタメの提供側が見えないからだ。
人と人とが関わってしまうと、自分だけの都合で物事を判断できなくなってしまう。それがたとえ提供者と消費者という非対称な関係だとしても、どちらもどこかに暮らしのある人間であって、立場だけでは語れない背景がたくさんある。気楽に話している中でも、少しづつ感じるところがあって、それは情となり、ただの消費者ではいられなくさせる。
何か目指すところがあるのなら、同じ方向を向いていたい。
落ち込むことがあるのなら、何か少しでも役に立ちたい。
一度消費者を超えてしまうともう後には戻れなくて、小さな言葉にも敏感に反応して、何かできるのではないかと錯覚して、会うことが義務だと思い込んで、貴重なお金や時間を費やしてしまったりする。何が正解なのかわからないまま、そして自分がただの消費者であることも忘れ去ってしまって、その人の目標ではなく、その人自身だけを見てしまうようになる。その人が今の道を選ばなければ、決して交わることのなかった二つの人生のはずなのに。
ただ、それは行き過ぎなければ悪いことばかりではない。
その人が感じた喜びが、まるで自分のことのように感じられる。かなりドライな人間関係しか構築できなかったわたしが、いわば擬似的な人間関係によって、小さい子供向けのアニメなんかで語られるような美しい感情に出会うことができた。誰かと一緒だと美味しい、なんて言葉を理解できなかったのに、今では手にとるようにわかる気がする。なんでも一人で済ませてきたのに、自分の感情を表に出さないようにしてきたのに、デフォルトの人間理解を敵として設定していたのに、云々。
もちろんそれは擬似的なものである。お金や時間を多少かけたと言っても、それはその人の表現とは無関係だ。その人の努力はその人のものでしかなく、努力ができる環境を構築したわけでも、その他あらゆる直接的なサポートをしたわけでも一切ない。ただの一消費者であり、そこは履き違えてはならない。
しかし、喜びは現にわたしの中にある。向かうべき場所へたどり着いた者の喜びがどういうものなのか、わたしは知ってしまった。
それならばどうすればいいのか。
その喜びを擬似的じゃない本物に変えてあげれば良い。
何かしら目標を定め、それに向かって進む。その人のように努力はできないかもしれないけど、自分なりに一歩ずつ。
振り返れば、出会いがなければ今生きているかわからない。生きていたとしても、おそらく聞いたこともない国の海岸で黄昏ていただけだろう。
ちゃんと生きることがそれほど素晴らしいことなのかはわからないが、目標がないよりは生きている意味がある気がする。