夜なのか朝なのか分からない時間。
この時間の空気と同じように私の頭も凛としている。
この空気感、この時間帯に起きている者が感じられる特権。音もなく光も薄く、冷たさだけが肌を刺す。

冷たさは頭をすっきりさせる。
中途半端な暖かさのせいだろうか、最近は昼間ずっとふわふわしたままだ。
所在なく、自分がどこに向かっているのか分からないまま、ただ日付が変わっている。
すべきことがあるわけでもなし、時が過ぎることになんの焦りも感じられない。どうしたもこうしたもないが、なるべくはっきりしたままで過ごしたい。
冬になればはっきりしてくれるだろうか。寒いのは嫌いだけど、冷たいのは悪くない。

自殺を目の前にして私が言えることは「お疲れさま」くらいだ。自分が死ぬときにも、心からお疲れさまが言えたらといいと思う。

たこぱ

たばこを吸う。

 

たばこの先がぽーっと明るくなる。

口の中に香ばしさとかすかな甘みを感じる。

 

息を吐く。

 

白い煙が散り散りに消えていく。

口の中の香ばしさも消えていく。

 

たばこを強く吸う。

 

たばこの先が、さっきよりほんの少し強く光る。

口の中が少しピリッとする。

 

息を吐く。

 

白い煙が散り散りに消えていく。

口の中は、まだ少しピリピリしている。

 

 

たばこは正直だ。

やさしく吸えばやさしく返してくれるし、荒く吸えば荒く返してくる。

たばこを吸うようになって、イメージが変わった。

吸う前は、荒々しさだけを思い描いていた。

でも、やさしく吸えばやさしい一面も見せてくれる。

甘みやうまみ、おいしい葉っぱのエキスを感じさせてくれる。

 

たばこのやさしい面を感じたくて、意識的にやさしく吸う。

そうすれば、たばこは裏切らずにやさしく応えてくれる。

もう一度感じたくて、またやさしく吸う。

そうしている内に、自分のすべてがやさしくなってしまう。

 

人の世が嘘ばかりだとしても、

裏切らない最後の砦に対しては、ぼくも裏切らない。

 

ノイジーマイノリティ

ぐわーっ

ぐわーっ

 

ばばばばばば

 

びーーーーーーーーー

 

どどどどどどどどどどごごごごごどどごどごそおどおほほほごごごごごご

 

 

ががががががががががあああがががああががががががあがががあががあああ

 

 

ばあばばばああああばっばばばばばばばばばばぶぶぶぶぼぼぼぼぼぼb

 

 

 

びびばあびbっばあああああ

 

 

すご

 

 

ごい

 

なんと立派な平城京

 

 

 

 

 

ゆにばーす

真ん中に球体があって、それより小さな球体が周りをぐるぐる回っている。

 

太陽系も原子も、イメージはだいたいこんなところだろう。

そういえば、銀河系も同じように中心に核があって、その周りを物体がぐるぐる回っているらしい。太陽系とか原子のようなシンプルなものではないが、おおかた同じイメージに思える。

このイメージは、人間が持つ感覚器官と、科学という捉え方・考え方によって生み出されたものなので、小さかろうが大きかろうが、同じ見方をすれば同じように見えると言ってよいだろう。

 

そんな感じでこの世界は、中央の核とその周りを回る物体というイメージが繰り返し現れるような気がする。原子よりさらに小さなスケールでも、観測範囲の宇宙よりさらに大きなスケールでも、一定のスケールごとに同じイメージが現れる。観測できないものは、想像もつかない途方もないものに思えてしまうが、意外と、自分たちの持っている知識の中で片付いてしまうものなのかもしれない。

例えば、私たちでいう太陽系のスケールで原子を持つ存在があったとしても、スケールが一個ずれただけで、当人たちはそのスケールが当たり前なのだから、私たちと同じような空間の中を生きるのだろう。

 

そう思うと、大きさという概念は世界を捉える上であまり重要ではないのかもしれない。もしかすると、大きさの極限と小ささの極限はつながっていて、スケールの差はその輪の中でぐるぐる回っているだけという可能性もある。

わたしがわたしの世界の見方に飽きつつある中で、大きさという概念をぶっ飛ばし、観測できていないスケールのものまで手中に収めるというのは、飽きまでの時間を長引かせる有効な方法に思える。ただ、観測できないものを観測できないままに思いを馳せるというのもロマンがあって、悩ましいところではあるのだが。

 

人生に飽きないために

2年ほど前にアボリジニアートの展覧会を見たことがある。

オーストラリアの先住民アボリジニが移動のために描いていた地図を基にした作品群で、のっぺりした画面と力強い色味が印象的だった。

 

さらに遡って高校の時、美術の授業で油絵を描く回があった。

描くにあたって強調されたのは、輪郭線を捉えるのではなく、その部分にどのような色があるかを意識することだった。例えば顔を描くのでも、口や目の境界線があるのではなく、口や目に当たる部分に周囲とは異なる色があるから結果的に口や目になるといった捉え方だった。

 

世界の見方が人それぞれなのはもちろんそうなのだろうが、自分の中にもさまざまな見方を取り入れることができるはずだ。

アボリジニアートが印象的だったのは、油絵を描いた時に感じた世界の捉え方の違いを思い出したことと、アボリジニが住む風景を思い描いた時に、今見ている作品のような世界の捉え方をするだろうと感じたことが大きい。

広大な乾燥地帯の中、辺り一面がほとんど同じ色で塗りつぶされたような風景に、生活に必要な水場が点在し、それらを道が結んでいる。こうした景色の中で暮らせば、おのずとアボリジニアートに見たようなのっぺりした画面で世界を捉えるのだろう。オーストラリアは写真でしか見たことがないが、そう確信したのだった。

 

日本で暮らして見る景色は色も形も本当に様々で、輪郭を描いて区別しておかないと情報過多になりそうに感じるほどだ。

ただ、30年近く生きてきてその風景と世界の捉え方が当たり前になってしまうと、他のあらゆる風景に対しても同じ捉え方をしてしまって、やがて飽きてしまう。

 

地球上だけ見ても様々な風景があって、そこに暮らす生き物によってそれ以上の様々な方法で捉えられている。

少し足を延ばして、違う景色を見て、違う捉え方を感じて。

またこちらに戻って、感じた捉え方を試してみて。

これを繰り返して、なんとか自分に飽きないようにしていかなければ。

 

サラダボーイ

顔がかゆい、むしょうにかゆい

必死に掻いてもまだかゆい

ぽりぽり ぽりぽり

ひたすらひたすら掻き毟る

 

ザクッ

 

ボトッ

 

あっ、耳がとれた

不注意だ

顔中掻き毟っていたら、指が引っかかってしまった

 

耳が取れた部分からは体液がにじみ出て、むき出しの身をふさぎ、

あっという間に新しい耳が形作られた

 

地面に落ちた耳は、取れる前と同じような姿のままで、生気があふれている

よく見ると取れた耳からも体液がにじみ出ているようだ

にじみ出た体液は、赤い傷口をふさぎながら、肌色の面積を増やしていく

 

どんどん増えていく肌色

突然、赤いふくらみが現れた

 

口だ

口を作っているんだ

 

その口はかつて鏡で見た形そのままだった

残った自分が耳を再生したように、取れた耳も自分を再生しようとしている

 

やめろ、やめてくれ

自分の姿を見せないでくれ

 

顔がはっきり現れる前に、急いで耳と口を踏みつぶす

かかとをひねって、ぐちゃぐちゃに引き裂く

何度も何度も、形がわからなくなるまで潰した

 

それでも、引き裂かれた部分から、とめどなく体液があふれてくる

あふれた体液が、どんどん肌色を広げ、目や鼻を形作っていく

 

次々作られていく顔を、夢中になってつぶした

ただひたすら地面を見て、肌色と黒と白と赤と、

顔を思い出させるような色はことごとく踏みつぶしていった

 

 

だんだん体液が少なくなって、肌色は増えなくなった

しょせん一つの耳、これ以上体液は出ないようだ

 

それでも、潰した顔の色で地面は塗りつぶされていた

ひねりながらつぶしたからだろうか、目と口の色がちょうど弧を描いていて、

いびつな笑い顔を地面に映し出していた

 

にぼし その2

にぼしを食べようとして、自分と同じような顔を見て、命を感じる。

 

自分と同じような顔だから、特別に強く命を感じてしまう。

それは、自分も命ある存在なのだと、強く信じていることを示している。

そして、目の前のにぼしのように、自分もいずれ命をなくすということも。

 

飽きて疲れて、空虚感の中を漂っていると、自分が生きているという感覚もおぼろげになっていく。

そんな中、ふと見つめたにぼしに、そこにかつて宿っていただろう命を強烈に感じた。

なぜ突然、命なんて感じたのか。

根拠を求めて心の中を探っていくと、どうやら顔が似ているかららしい。

似た存在に命を感じて、自分の命を思い出す。

ああそうだった。自分も命ある存在として、生きているのだった。

 

そうしてまたにぼしを見つめる。

かつてあったはずの命は干からびていて、自分の指先にはただ物をつまんでいるのと同じ感触しかない。

また気づいた。命はこんな風に、きれいさっぱりなくなってしまうんだ。

にぼしが命をなくしたのなら、似ている自分だって命をなくすことができる。

 

生き続けることを思うと疲れてしまうけど、終わりがあるならそれまで踏ん張ってみてもいい。

もう少し何かを探して、それから干からびよう。