人生に飽きないために

2年ほど前にアボリジニアートの展覧会を見たことがある。

オーストラリアの先住民アボリジニが移動のために描いていた地図を基にした作品群で、のっぺりした画面と力強い色味が印象的だった。

 

さらに遡って高校の時、美術の授業で油絵を描く回があった。

描くにあたって強調されたのは、輪郭線を捉えるのではなく、その部分にどのような色があるかを意識することだった。例えば顔を描くのでも、口や目の境界線があるのではなく、口や目に当たる部分に周囲とは異なる色があるから結果的に口や目になるといった捉え方だった。

 

世界の見方が人それぞれなのはもちろんそうなのだろうが、自分の中にもさまざまな見方を取り入れることができるはずだ。

アボリジニアートが印象的だったのは、油絵を描いた時に感じた世界の捉え方の違いを思い出したことと、アボリジニが住む風景を思い描いた時に、今見ている作品のような世界の捉え方をするだろうと感じたことが大きい。

広大な乾燥地帯の中、辺り一面がほとんど同じ色で塗りつぶされたような風景に、生活に必要な水場が点在し、それらを道が結んでいる。こうした景色の中で暮らせば、おのずとアボリジニアートに見たようなのっぺりした画面で世界を捉えるのだろう。オーストラリアは写真でしか見たことがないが、そう確信したのだった。

 

日本で暮らして見る景色は色も形も本当に様々で、輪郭を描いて区別しておかないと情報過多になりそうに感じるほどだ。

ただ、30年近く生きてきてその風景と世界の捉え方が当たり前になってしまうと、他のあらゆる風景に対しても同じ捉え方をしてしまって、やがて飽きてしまう。

 

地球上だけ見ても様々な風景があって、そこに暮らす生き物によってそれ以上の様々な方法で捉えられている。

少し足を延ばして、違う景色を見て、違う捉え方を感じて。

またこちらに戻って、感じた捉え方を試してみて。

これを繰り返して、なんとか自分に飽きないようにしていかなければ。

 

サラダボーイ

顔がかゆい、むしょうにかゆい

必死に掻いてもまだかゆい

ぽりぽり ぽりぽり

ひたすらひたすら掻き毟る

 

ザクッ

 

ボトッ

 

あっ、耳がとれた

不注意だ

顔中掻き毟っていたら、指が引っかかってしまった

 

耳が取れた部分からは体液がにじみ出て、むき出しの身をふさぎ、

あっという間に新しい耳が形作られた

 

地面に落ちた耳は、取れる前と同じような姿のままで、生気があふれている

よく見ると取れた耳からも体液がにじみ出ているようだ

にじみ出た体液は、赤い傷口をふさぎながら、肌色の面積を増やしていく

 

どんどん増えていく肌色

突然、赤いふくらみが現れた

 

口だ

口を作っているんだ

 

その口はかつて鏡で見た形そのままだった

残った自分が耳を再生したように、取れた耳も自分を再生しようとしている

 

やめろ、やめてくれ

自分の姿を見せないでくれ

 

顔がはっきり現れる前に、急いで耳と口を踏みつぶす

かかとをひねって、ぐちゃぐちゃに引き裂く

何度も何度も、形がわからなくなるまで潰した

 

それでも、引き裂かれた部分から、とめどなく体液があふれてくる

あふれた体液が、どんどん肌色を広げ、目や鼻を形作っていく

 

次々作られていく顔を、夢中になってつぶした

ただひたすら地面を見て、肌色と黒と白と赤と、

顔を思い出させるような色はことごとく踏みつぶしていった

 

 

だんだん体液が少なくなって、肌色は増えなくなった

しょせん一つの耳、これ以上体液は出ないようだ

 

それでも、潰した顔の色で地面は塗りつぶされていた

ひねりながらつぶしたからだろうか、目と口の色がちょうど弧を描いていて、

いびつな笑い顔を地面に映し出していた

 

にぼし その2

にぼしを食べようとして、自分と同じような顔を見て、命を感じる。

 

自分と同じような顔だから、特別に強く命を感じてしまう。

それは、自分も命ある存在なのだと、強く信じていることを示している。

そして、目の前のにぼしのように、自分もいずれ命をなくすということも。

 

飽きて疲れて、空虚感の中を漂っていると、自分が生きているという感覚もおぼろげになっていく。

そんな中、ふと見つめたにぼしに、そこにかつて宿っていただろう命を強烈に感じた。

なぜ突然、命なんて感じたのか。

根拠を求めて心の中を探っていくと、どうやら顔が似ているかららしい。

似た存在に命を感じて、自分の命を思い出す。

ああそうだった。自分も命ある存在として、生きているのだった。

 

そうしてまたにぼしを見つめる。

かつてあったはずの命は干からびていて、自分の指先にはただ物をつまんでいるのと同じ感触しかない。

また気づいた。命はこんな風に、きれいさっぱりなくなってしまうんだ。

にぼしが命をなくしたのなら、似ている自分だって命をなくすことができる。

 

生き続けることを思うと疲れてしまうけど、終わりがあるならそれまで踏ん張ってみてもいい。

もう少し何かを探して、それから干からびよう。

 

にぼし その1

最近にぼしをよく食べる。

帰ってきたらすぐに、野球を見たりマインスイーパをしたりしながら、それこそ食事の代わりと言わんばかりにばくばくと食べてしまう。

 

 

ただ、食べている時にふと感じてしまうことがある。

にぼしひとつひとつに頭があり目があり口があり、自分とあまり変わらない顔がついていて、どれもがかつて生きていた存在なのだということを。

何気なく食べてしまった一口一口すべてに、命があったのだということを。

 

他者の命をいただくことで自身の命が成り立つ生き物がいて、人間もそのひとつであって、自然界はそのように成り立っていることはわかっている。

だから、にぼしが自分と近い見た目だからといって、そこにとりたてて命をいただくことを感じるのは欺瞞だし傲慢なのだろう。

それでもふと、にぼしの顔を見てしまうたびに、数分の内に食べてしまった何十個の命と、自分の命とを思わずにはいられない。

 

 

命は平等だなんて言葉がある。

そんなことは全く嘘っぱちだと思うし、にぼしと自分とを考えるだけで偽りだと判断できる。

そうだとしても、数分で消え去る何十個の命と、それを踏み台にこれからもしばらく残り続けるたった一個の命という関係は、どうして成り立っているのだろう。

 

もともとの命の継続時間が違うから?

身体の大きさが違うから?

 

ぱっと思い浮かぶことを並べると、それは人間の中でも違っていることばかりだ。

国とか地域の平均寿命の違いは、にぼしと自分のような関係性を成り立たせるのか?

そんなことはあってはならないと、現代の倫理観が否定するだろう。

 

生物種が違うから?

 

人間の中で違ってしまうことを無視するなら、人間かそうではないかで分ければよい。

にぼしは人間ではないから、上のような関係が成り立つ。

それなら人間ってなんだろう。人間かそうではないかは何で決まるのか。

そもそも種という分け方が恣意的で、科学の対象として変わりうるものである。

人間であることを根拠にするのは、関係性が不安定なままで、成り立つところまでいかないような気がする。

 

 

考えをもっと広げたところで、答えは出ないような気がする。

自然界がそうなっているから、で片付けるべき問題なのかもしれない。

それでも、にぼしの顔を見るたびに思ってしまう。自分の命は、にぼし何十匹分の命を土台にしてでも維持していく価値があるのだろうか。

 

そう思ったところでお腹は減るし、身体が早く何か食べるよう訴えてくる。

今日も心と身体のせめぎあいの中で、にぼしの顔から目を逸らしつつも、何度も何度も口に運んでしまう。

 

偏食が許容されるたった一つの冴えたやり方

牛乳がけフルーツグラノーラは多面的に万能食であり、それだけを食べ続けていればよい。

以下に、その根拠を列挙する。

 

1. 栄養的万能性

穀物を植物油に浸してオーブンで焼くというグラノーラの基本的製法から、炭水化物と脂質は十分に含有されている。また各種ドライフルーツやナッツ、大手メーカー製品であれば添加物によって各種ビタミン・ミネラルも摂取できる。

さらに、後がけの牛乳により植物性原料だけでは不足してしまう動物性たんぱく質も補うことができる。そもそも牛乳はそれ単体で仔牛を一定程度生育させるためのものであり、各種の必須栄養素を大方含んでいる。

 

2. 身体体験の万能性

グラノーラはたった一口でも様々な体験を与えてくれる。

まずは味覚。甘さがベースではあるものの、甘さだけとっても様々だ。グラノーラにベースとしてつけられている砂糖やメープルシロップの甘さ、イチゴのバランスのとれた甘さと酸っぱさ、レーズンのねっとりした甘さ、焼いたグラノーラの香ばしさ、ナッツの濃厚さ…。多様な原材料を使用しているだけ多様な味覚を感じさせてくれる。

(注:とはいえ味としてはほとんど甘さだけじゃないかとお思いの方へ。甘さと対比される塩辛さは、サウナにでも入ってしたたる汗を舐めておけば感じられる。わざわざ別に食事をとる必要はない)

同様に嗅覚においても、焼いた穀物、各種ナッツ、フルーツが違った香りを鼻腔に届ける。

視覚、聴覚、触覚でも同様だ。色、舌触り、噛んだ時の音と感触、様々な原材料がそれぞれの異なった感覚をもたらす。

それに加え、牛乳が浸透していくことによる時間的な変化も楽しめる。初めはザクザク、だんだんサクサク、ふわふわと、刻一刻と異なる体験が提供される。

最後に、グラノーラという食べ物と牛乳という飲み物が一体となっていることで、普段は明確に区別される「食べる」と「飲む」という2つの行為も一体化されるということは付け加えなければならないだろう。スプーンですくった中にはグラノーラも牛乳もあり、それらが同時に口の中に入る。あるいは、ほとんどグラノーラばかりをすくいもっぱら「食べる」行為に偏ってもよいし、牛乳だけすくって「飲む」一口を楽しんでもよい。

こうした多様な原材料と時間変化がもたらす多様な身体体験が、フルーツグラノーラを食べることで提供される。

 

3. 文化的万能性

様々な原材料を使用しているということはすなわち、それぞれの原材料の文化的背景も含んでいるということであり、食べることは多様な文化的背景を体内に取り入れることである。

穀類でいえば、小麦は世界的に古くから利用され様々な食文化を生み出してきた一方で、オーツ麦はほとんど北欧でのみ利用されてきたというような具合だ。

ドライフルーツについても、イチゴやレーズン(ブドウ)のように幅広い地域で利用されている原材料がある一方でパパイヤ、マンゴーといった比較的狭い地域でのみ利用されているものも含まれている。上述の味の多様性という観点も、様々な文化的背景につながるものであるだろう。

こういった原材料の歴史を踏まえた文化的万能性に違和感をお持ちの方もいらっしゃるかもしれない。その場合は、グラノーラが様々な風味を許容するという点から万能性を感じていただきたい。砂糖やメープルシロップによるオーソドックスな味付けの他に、トロピカルなココナツ風味、抹茶や味噌(!)といった和風な味付けなど、専門店だけではなく大手メーカーからも様々な味付けで販売されている。フルーツグラノーラという概念は保ちながらも、まるで異なる印象を与えてくれるということから、より多くの方に万能性を感じていただけるだろう。

 

以上、大きく3つのカテゴリに分けてフルーツグラノーラを食べるという行為が備える万能性を述べた。食べるという行為から連想される体験はすべて、この中に含まれている。他の食事をとる必要はない。さあ、皆さんもフルーツグラノーラという万能性を暮らしに取り入れていこうではないか。 

ほも・さぴえんす

大学受験の時は物理や化学が好きで、考えの流れに乗って次から次へと答えが出てくる感覚が心地よかった。

身の回りの物質や現象がこうも理路整然と説明されるのだと、いわゆる自然科学の美しさの一端に触れた気持ちになった。

 

でもある時、

自然「が」説明「される」のではなく、自然「を」説明「している」

と思ってから、そんな心地よさや美しさも茶番となった。

 

論説や小説を読まされて内容理解を問われているのと変わらない。

認識できる対象を、理解できる方法で、納得できる流れに落とし込んだ物語を、どれだけ覚えているかを問われる。

すべて、人間が作り別の人間が評価した物語を使って、また別の人間が作った基準で選別している過程なんだ。

 

 

受験からだいぶ経ち、当時の内容などほとんど抜け落ちてしまったけれども、上の感覚はそのままだ。

むしろ、人間以外の生き物をつぶさに観察するようになって、茶番に思う感覚は強くなった気がする。

他の生き物は、また他の世界を見ていて、その中で生きているように感じる。

人間の見ている世界は、その中の一つに過ぎない。

 

確かに、科学によって様々なものが生み出され、利便性が高まり、幸せが増した面もあるだろう。

だがそれは一面であり、あくまでも科学を受け入れている存在の中だけで享受されているものだ。

 

科学という物語は、それを楽しめる者の中で完結させておくべきで、そこから拡散させようとするのは、人間社会の多数派となってしまった者たちの傲慢なのかもしれない。

 

あきたけじょう

管理され、ある場所から外に出ずに一生を終えるような暮らしは、ディストピア的と思われている。

自由意思が保障され、好きな時に好きなところに好きなものを好きな人と、そんな暮らしが理想的だと思われている。

 

わたしもそう思っていた。

 

けれども、「好き」の制限を思ってから、上の2つの暮らしがどちらも同じようなものに感じられてしまう。

 

「好き」は、与えられた範囲から出ることができない。

 

一生同じ都市に閉じ込められることと、一生日本から出ないこと、一生地球から出ないこと、一生銀河系から出ないことと。どれも自分の知る世界の中で完結する暮らしだ。

音楽が好きだ。でもその音楽は、自分の可聴域の中でしか楽しめない。

美しい風景を見た。でもその風景は、自分の視覚の範囲にしかない。

 

「好き」はすべて、自分が人間であること、自分がこの身体であること、日本語が母語なこと、これまでの経験…なんかに制限されて、その中にあるものしか対象にできない。

 

鳥のように、4色型の色覚だったら世界はどう見えるだろう。

一部の昆虫のように、紫外線も見えたらどうだろう。

超音波が聞こえたら、

もっと香りに敏感だったら、

 

 

自分の「好き」に飽きはじめて、なんか人生飽きてきた。