mづあい

そうして彼は落ち込んで、その短い生涯を終えた。

楽しい出来事は一瞬で終わる。そう、あっという間に。それは塗り絵をしていて、弱い色、例えば黄色とか肌色(今は差別防止のためにうすだいだいと呼ぶらしいが)の色味の調整のために強い色を重ねる時のようだ。弱い色はすぐに強さに打ちのめされてしまう。あの色が出したくて、なんとか目の前の色を分解して編み出したというのに、少し力を入れればあっという間に強さに覆い隠されてしまう。強さ。それは自分の信念を信じられることだといってもいい。うすだいだいだって、そいつだけが塗られていればまぎれもないうすだいだいなのだ。だけど、そこに赤色とか、あまつさえ黒色なんて置かれてしまえば、何も彼の意思は反映されなくなってしまう。薄く薄く、とにかくそこは理性との戦いだ。色を塗りたい、その思いに毒されてしまうと見る間もなく黒一色に塗りつぶされてしまう。ああ、今日もまた心を込めて塗ったうすだいだいが一瞬の力によって黒く塗りつぶされてしまった。気づいてからいくらうすだいだいを力強く塗ったとしても、もう元には戻れない。漆黒。暗黒。それ以外何もない。黒くなった後に初めてきづく惨劇。

ああ、生まれてこなければよかった。

ビジネス書の書き方

1 主張を考えよう

 

書店でビジネス書の棚を眺めながら、よく出てくる言葉(以下、A)をピックアップしよう。次にその言葉と逆のイメージを持つ言葉(以下、B)を思い浮かべる。そしてその言葉こそがビジネスにおいて重要なのだ、と自分に言い聞かせる(最重要ポイント)。思い込みが完了すれば、重要であると考えられる理由は何個も自然と思い浮かぶだろう。そうすればもう本文に手がつけられる。「Bと聞いて、ビジネスシーンと結び付けられる人はそう多くはないだろう」と書き出そう。あとは理由を簡潔に並べて本書の構成を述べたあと、最後に「これからその中身を見ていこう」とでもつけておけば『はじめに』の完成。

一方、Aがビジネス書で取り上げられている理由をサーチしておいて、それらの理由に反論しながら、Bの理由へと結びつけることも忘れてはならない。あまりぶっきらぼうに先人たちの主張を無視すれば、私のように友達がいなくなってしまう。そこまでできれば、「もちろん〜という主張もあるだろう。しかし〜」とか言いながらAの理由1、その反論、Bの理由1、という風に繰り返していけば第1章の完成。

 

2 主張の裏付けを取ろう

2ー1 すごい企業(多くはアメリカ)の事例を集めよう

例えばグーグルやアップル。ボストンとかマッキンゼーとかコンサルもいいし、ブランド力の高い企業の事例をかき集めてBの理由にマッチしそうなものをピックアップする。業種が多岐にわたっているからそれっぽい事例はいくらでもあるはずだし、ぴったりな事例が見つからなくても自分なりの解釈を付け加えて無理矢理繋げればいい。アクセントとしてたまに日本企業の事例を付け加えておくと吉。

2ー2 自分の経験と結びつけよう(あれば)

筆者の肩書きを気にするのがビジネス書の読者というものだ。「私は10年〜をやってきたが、そこで〜」なんて書いて、内容がまさにBの理由を体現したようなものだった暁には、読者の心は筆者に釘付けだ。

2ー3 科学的知見を活用しよう

論理的思考力が重視される時代において、やはり科学の権威というものを取り入れておきたい。脳科学や心理学、社会学とかを中心に、あるいは生物学なんかを齧って本能的な部分だと訴えてもいいのかもしれない。知見のアカデミックな世界での受け入れられ方なんてのは無視してよく、多少トンデモであっても自分の主張を裏付けるのであればじゃんじゃん取り入れていこう。なに、読者はジャーナルなんて購読していないし、していたとしても専門外の分野に口は出せない。

2ー4 失敗事例も取り入れよう

企業や自分の事例を集めようとすると、どうしても成功事例ばかり集めてしまいがちだ。Bがないばかりに失敗してしまったという事例も付け加えておくことで、さらに主張に説得力が増す。これもこじつけで良い。

 

本の序盤〜中盤にかけては、上記の内容を並べながら自分の主張を繰り返し述べていこう。

 

3 読者に歩み寄ろう

3ー1 身近な例を作り出そう

先ほど取り上げた事例はどれも有名な大企業だったり、本が書けるほどすごい著者のものだったりと、読者の立場からすると雲を掴むような話に思えてしまう。企業の1セクションの話なんかに置き換えたバージョンを作っておいて、適宜挿入しておこう。読者が身近に感じてくれれば、自分の主張もより受け入れてもらいやすくなる。先ほど述べた著者の失敗事例なんかも、親近感を感じてもらう有効な手段となりうる。

3ー2 今日からできる実践方法を考えよう

Bがどれだけ大層な言葉であっても、読者に何か変化を起こさせないようではビジネス書としてのヒットは見込めない。時にはエリートたちを、あるいはどこにでもいそうな平社員たちを事例に、実践方法とそれによってもたらされた変化を書き並べていこう。実践することはなんでもいいが実践してもらえなければ意味がない。通勤中の時間で済むことだったり、あるいは会社の休み時間に周りを巻き込んでゲーム感覚でできるものだったりするときっかけを掴んでもらいやすいだろう。

 

本の終盤では、こうした歩み寄りを見せながら自分の主張の普遍性を訴えていく。最終章はもちろん実践方法に充てる。最初に大きな主張を見せておいて、だんだんと一会社員であろう読者の立場に歩み寄っていく。最後に実践方法を書いて「あなたにもできる!」なんて言われた日には、読者はエクスタシィの境地に達してしまう。

 

科学教覚え書き

わかろうとするためには、わかることを信じなければならない。

つまり、

第一教義

人間は、自然を「わかる」ことができる

 

この信念に従うことではじめて、自然をわかろうとする試みが生じてくる。

信念は脆い。その脆さに打ち勝つためには、論理も大切だ。論理的に示されることで、わかることをより強固に信じることができる。

人間が自然をわかることができる。ここには、いくつかの飛躍がある。

・自然という言葉の含む範囲

自然とは、自ずからそうあるもの(物質・挙動)。

・自然と人間との位置関係

・わかるという到達点の意味

 

人間が観測するものの範囲

そして、わかろうとする試みを継続するためには、わかった先に何が待ち受けているのかも明確でなくとも示す必要もある。

ディストピアについて

 ありきたりであるが、1984年の素晴らしさに感銘を受けて以来、ディストピア成分のある小説が好きになった。ガチガチの世界観にどっぷり浸かり、往往にして体制側の立場に立ってそこでの暮らしや思考について思いを馳せる。側から見ればその世界のベースは今暮らしている社会とそれほど変わらないように感じる。それでも一分の隙間もない完璧な社会が構築されていて、わずかな違いがこのような世界を作り上げているのだと思うと、逆説的に今いる社会の不安定さにゾクゾクする。小説で描かれている社会と比べれば、暮らしている社会はディストピアとは到底言えなさそうだけど、しっかりとそうなる可能性を孕んでいるのだと。

 と思えているのは、我々がディストピア社会の中の住人であるからなのではないか。ディストピア社会の住人の多くは、自分たちがディストピア社会の住人であるとは思っていない。まあそれは、体制の維持を強固にするために意図的に他の社会の情報が遮断されているからというだけなのだが。この点は小説でも現実でもディストピア的な社会の共通事項のように思われる。

 その点、特に先進国と言われる社会体制では、個人が得られる情報の幅も広く、他の体制と比較しながら自分が所属する社会を批判することも許される。もちろん全ての情報が得られるわけではないにせよ、体制側が自身に都合の悪い情報のみを意図的に隠しているようには見えないし、その点で私たちが暮らしている社会はディストピア的ではないと思われている。

 ただそれが、思わされているだけだとすれば?

 都合の悪い情報が隠されることは、許されないことである。我々にはそのようなことは一切ない。批判記事が報道されることもあるし、個人が体制を批判することも許容している。意見表明の場として選挙制度を導入していて、その批判を形にすることもできる。ゆえに我々はベストではないにせよベターな社会制度なのである、と。

 ディストピア小説ディストピア小説たらしめているのは、上述の事柄を我々が信じているという点である。批判が許されること、自由があること。こうしたことが良いという信念が、そうではない体制をディストピアだと感じさせているだけなのだ。

 少なくとも小説の中では、ディストピア社会においてその体制に疑問を持たない多くの住人たちはそこまで不幸を感じていないように思える。自由を得た反面、自由によって攻撃される恐れがあるより、不幸の総量は少ないかもしれない。

 

 信念を余儀なく持たされるという点では、ある国の社会体制というレベルだけではなく、グローバルな規模でも同じなのかもしれない。お金の価値を信じないで生きることはこの地球上ではなかなか難しそうだし、それに伴って労働からも逃れにくい。人との関わりであったり、向上心を持つことであったり、信念の強制力には大小があれども、何かの価値を信じなければならないということからは逃れられなさそうだ。

 息苦しさとか虚無感とかを和らげるために、こういった価値を相対化して、その呪縛から解き放たれることがヒントになるかもしれない。

 

【追記】

 書いてるうちにちょっと思ってきていたのとずれていたので追記。

 フィクションで描かれたり現実にそうと思われているディストピアのような絶対的なものとして君臨する体制より、今我々がディストピアではないと思いながら暮らしている社会の方が不誠実で、それ故より酷いのではないかと感じている。他の体制の可能性を示し、そちらの方が良いと思うことを否定しないという自由を標榜しながらも、現実的にはお金のように組み込まれた価値観からは逃れられない。強制はしていないですよと言いながら結局押し付けてくる、そんな現代社会のスタンスに辟易している。

自覚2

生きるのに疲れたという感覚を持って久しい。

だから、限られた時間の中で満足を求めていきたい。

 

生きてきた中で感じたことは、人類が馬鹿だということ。

そして、現在主流となっている人種たちは自分たちのことを賢いと思っている。

このクソみたいな社会のクソみたいなところを自分の中だけでも消化できれば、心置きなく死ぬことができるし、もし仮にまた生き物に生まれ変わりさせられそうになっても、現世で得た信念が助けてくれるはず。

ただ、頭の中で持っているだけでは不安だ。十分に書き切れるとは思えず、単なる羅列のようになるのかもしれないが、今の思うところを書いておくことで、後で見返すための羅針盤になればよい。

 

平成の日本でしか生きていない私にとって、閉塞感というのは大きなキーワードとなる。目指すべきものがなくなった時代。一方で課題は顕在化してしまった時代。

そんな時代を生きていれば、否応無しに社会に対して疑問を持ってしまう。

別に、政治とか、ジャーナリズムとか、労働とか、そんな瑣末な事柄に問題意識を持っているわけではない。馬鹿を凝縮したような振る舞いに、そもそも興味が持てない。

そうではなく、もっと漠然とした社会の常識に対する疑問である。

地球上の多くの人が染められてしまっている価値観はたくさんあるだろう。

他の生物に対する人間の特権意識。科学に対する信頼。経済成長の肯定。

日本がどうのこうのとかではなく、もっと人類の大多数に当てはまるような事柄に対して、否定をしていきたい。

人間の特権意識は馬鹿丸出しなので言わずもがな。覇権を握っている自然科学に対しては、それは宗教でしかないという観点から見てみる。ひとりでに失敗してしまった社会主義だけじゃなくて、資本主義ももう限界にきている。有限の物体で生きていくしかできない存在のくせに、成長以外の評価軸は用意していなかったのか。

とはいえ結局、これらも瑣末な事にすぎない。人間の活動の一部をとって、小さな穴を見つけているだけにすぎない。

ただ、小さな穴もたくさん空ければ崩壊につながる。

人間活動の見かけの複雑さを崩壊させて、人間という存在を単純化したい。

人間と人工知能の対比ではない。機械として作り上げることができる程度の、反応を返す単なる箱であると信じられるようになりたい。

その一環として、倫理観とか、個々人に紐づく精神的なものも単純化ができるだろう。

 

と書いてきて、はっきりと、馬鹿なのは自分なのだと感じられた。

いや、初めからわかってはいたのだが。

自分のことがあまり好きではない私にとって、周りの人々を馬鹿にしていくことは、生き延びていく術であった。周りの人間を馬鹿だと心底思えることができれば、そこに妬みもなんの感情もない。相変わらず自分のことが嫌いだったとしても、鏡を見ながら顔を殴りつけるくらい嫌いだったとしても、比較する対象がなければ、存在は許容された。

とはいえ、馬鹿にすることは際限がない。年齢を重ねるごとに関わる存在は増えていくし、インターネットがあれば、目の前にいない人たちの存在も認識してしまう。その中で、馬鹿にする対象は無尽蔵に増えていき、最終的には大多数の人類を対象としなければいけなくなった。

で、疲れてしまった。まあ、馬鹿な自分が満足できる大多数の人類を馬鹿にできる何かが見つかれば、そこが潮時なのだろう。生きるのに耐えられなくなるのが先かもしれないが、そこら辺を「普通」に代わる生き方として、特に努力はせずに歩いていく。

 

 

結構恵まれてるように思っているのだが、なんでひねくれてしまったんだろう。

お金の苦労はほとんどさせられたことがない。人間関係もまあ、人生の後半になるほど良くなっていったような気がする。勉強にしろなんにせよ、特に努力することなく平均点は出せる。

きょうだい児であることとか、何かしらキーワードはあるのかもしれない。そんなことを貪るように調べていた時もあったけど、生きる術を手に入れた後では、大して影響もなかった。

なんやかんや言って、愛されるとかそういう瑣末なことでパッと開かれるのかもしれない。やっぱり私は馬鹿なのだ、それゆえに。

 

自覚1

「アイドルが好き」と公言すること

音楽をよく聴くようになったのは大学に入ってからだと思うが、それ以前から、なんなら産まれた時から好きだと思う音楽の基準は変わっていないように感じる。

中学か高校かの時だっただろうか。初めて自分の意志で選んだCDは、PSPもじぴったんのサントラだった。メインの3曲にはいわゆるネオ渋谷系の作曲家たちによるアレンジが加えられ、これがとても心をくすぐった。

「オシャレ・キュート・ポップ」というCDのコンセプトそのままに、ピコピコしていてかわいくて、都会的で。

ただ素直によいと思ったものを手に取った。当時は深く考えていたなかったが、環境もあって人の目ばかり気にしていた自分にとっては、大きな転換点だったのかもしれない。

とはいえ、人の性質がすぐに変わるものではない。「もじぴったんのサントラが好きです」ではあまり話のネタにもならなさそうだったので、サントラを聴きながらも、もっと有名なジャンルや人も漁り、音楽関連のネタはそちらに委ねた。

ネオ渋谷系という言葉のような、ざっくりしたものでも自分が伝えやすい表現をその時に持っていれば、そうしてはいなかったのかもしれない。

そうした時期を挟んで、大学生になった。そこで一人暮らしをさせてもらった。

一人暮らしだと、顔を伺う対象がいないために、自分がどうしたいかだけを頼りに行動することになる。

部屋を自分が心地良いと思える空間にしよう。そのために好きな音楽でもかけようか。そこでようやく、サントラを聴いた時に感じた、素直な好きという気持ちを思い出した。

そこからはもう、自分の感覚に従って音楽を聴き漁るのみだ。

飽きっぽいので、様々なジャンルに好きの可能性を見出しておきたい。だから少しでも引っかかる部分があれば聴いた。

そうしていく内に好きの基準が確固たるものとなっていった。

キーワードはかわいさ、電子音、そして女性ボーカル。

困りものなのは女性ボーカルという点だった。チップチューンやフューチャーベース、その他ジャンルもわからないままに聴き漁っていると、曲調が好みのものはそこそこ出てくる。ただ、アマチュア作曲家も多い中だからか、あるいはジャンルの文化だからか、なかなかボーカル入りのものは見つけだせなかった。

心地よさの大きなキーポイントが、女性ボーカルにある。

ひたすら探していく内に、いわゆる地下アイドルと言われる人たちの楽曲に巡り会うのだった−−−

 

こうした経緯でアイドルを知り、好きになっていったので、好きであるモチベーションは好きな音楽を楽しませてくれるからという点が大きい。自分が素直に好きだと思える音楽が、たまたまアイドルユニットの中にあったから、好きなのである(とはいえちゃっかりチェキなんて撮ったりしているが)。

ただ、人と話している時に、自分の悪い癖が出てしまう。

世間話として、趣味を聞かれることは多い。他にあまり好きなこともないので、音楽の話でもしておこうかとなる。ただ、好きな音楽そのものはあまり有名ではないし、自分の言葉でうまく伝えられそうにない。となると、真意は伝わらないかもしれないが、わかりやすいアイドルという言葉にのせて押し通してしまおうと考えてしまう。また、そこには、「アイドル好き」のような明確なキャラ設定を与えることで、印象に残りやすくしようというような卑しい考えも少しばかりあるのかもしれない。

 こうして、あまり深く語らないままに、「(地下も含めて)アイドルが好きだ」と公言してしまう人間が出来上がった。

 

一方で、アイドル業界に関しては厳しい話題も多く上がっている。

去年から今にかけては特に多かったように感じられるが、ローカル、メジャー問わず運営や商業形態含めて問題を浮き上がらせるような事件が起こった。

 

何か起こってから初めて気付いた、といった形で情けない限りなのだが、こうした状況に対して、上述の公言の姿勢はあまりにもずさんではないか。それは、目の前の相手というよりは自分自身と何より今まさに頑張っているアイドルたちに対してである。

アイドルたちに対しては言わずもがな。

自分自身に対してというのは、性に対する自分の立ち位置に反するというところが大きい。性欲というものに嫌悪感を抱いたところから始まり、自分が男性であることに疑問を持ち、世の中の性のあり方について少しづつでも勉強していたことに対してだ。

 

別に他者は関係ない。歳をとって、かつて人の目ばかり気にしていた反動ためか、すっかり他人の評価を気にしなくなってしまっているから、そこはどうでもよい。

しかし、それだからこそ、自分に対しては誠実でいないと、いよいよ何もなくなってしまう。

アイドルが好きなのは紛れもない事実だと思う。音楽から入ったとはいえ、ライブにも行き、パフォーマンスも含めて素晴らしいと思った。

だからこそ、色々なもやもやを解消して、やっぱり好きなんだと言えるようにしたい。

上述の事件、最大手の売り方。なぜ自分が不快感を持つのかをしっかり消化していかなければならない。そこに明確な意見を持った上で、さらにその土台に好きという気持ちを乗せなければならない。