反省、あるいは

書き込むたび度反省した。誰の、どういう気持ちに対して申し訳無さを抱くのかはわからないが、よくないことだとは感じている。

ただし、わからないまま反省をしてもそれは反省の真似事でしかなく、振り出しに戻る。

反省をしたという記憶は蓄積されていく。何度も同じことを注意されてはいけないと、新社会人がまさに今言われていそうな文言を自分で自分に振りまく。

二度、三度、四度、、、

蓄積された注意の数がようやく閾値に達したらしい。反省を繰り返していたことに対して、ようやく本当の反省を抱きつつある。絶対にしない。今度こそ…

 

ただ数が増えただけだ。反省をするには、なぜそれが悪いことなのか自分の腑に落ちる必要がある。悪いことをしないと誓ったとして、悪いことがなにかわからないとすれば、似た振る舞いをしてしまう。もちろん相手は同じように感じるし、何度目かの蓄積はこれまでと同じく+1される。もちろん蓄積が増えれば増えるほど、その+1が取り返しの付かない結果を産む可能性は増えていく。

 

と書いていたが、なんか自意識過剰すぎて止めてしまった。わたしは何十人、何百人かのうちの代替可能な一人にしかすぎないし、そうであってほしい。その意味で、わたしの一言は相手にとって些末な一言でしかない可能性のほうが高い。何かコミュニケーションをミスしてしまったとして、失言ポイントが+1されるのではなく、そもそもそんなポイントなど存在しないのかもしれない。

ただそれは、何でも言っていいということを意味しない。マイナスの言葉は発言者の気持ち以上に耳に心に残ってしまう。わたしに対する失言ポイントが存在しなかったとしても、全体に対する負の感情は蓄積されてしまうだろう。続けてくれた強さに甘えるのではなく、基本的な、相手に対する敬意を忘れず、立ち振る舞わなければならない。

それはもちろん相手の足を引っ張らないためでもあるし、何より、誠実さをもって、自分のことを好きになれる小さな一歩ともなるからだ。

 

そして昨日、同じことが思い浮かんだときに、口に出す前に自分の中でストップをかけることができた。

これまで様々な感情の言語化をサボってきたし、今回もわからないまま書いていたが、書いたという行為のおかげで踏みとどまることができた。書けそうだと感じる前、もやもやした段階からでも書こうとすることで、次の一歩へ結びつけることができるのだと、遅ればせながら気づいた。